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映画研究部の歩み

映画鑑賞から映画制作へ! 若者たちの夢と熱意を写し込んだ16mmのミクロな世界

 現在では当たり前のように見ているテレビ放送。国内で始まったのは、昭和28年のことである。それまでの娯楽の主流は「映画」。学習院の学生にとっても例外ではなかった。
学習院大学映画研究部の始まりは、昭和22年6月。「国劇研究会」と同時に「映画文化研究会」の名称で誕生した。映画好きな学生が集まって、映画研究をはじめたのである。
創設当時は同好会であったが、部員が増え、昭和23年4月に「映画研究部」に昇格した。最盛期には大学と短大合わせて130人の部員が在籍。活動の中心は新作映画について互いに意見を論じ合う月2回の「合評会」だった。
当時、映画会社では新作映画の試写会が毎日のように行われ、半分以上は無料で入場できた。部員たちは映画会社を回って、試写会の入場券獲得に奔走したという。
また、余裕のあるときは有料の映画館に足を運んで鑑賞することもあった。学食のカレーが30円だった時代、映画館の入場料は30~150円。決して安くない有料の映画には、そう頻繁には行けなかった。
当時の映画のジャンルは、ドラマやバラエティ、ミュージカルをはじめニュース、文化・教育映画など実に多彩。どの部員も週平均7本鑑賞し、合評会に備えた。そして合評会では、評論家顔負けの迫力で熱弁をふるっていた。
そんな折、自分たちの映画を作りたいという欲求が生まれてきた。だが、お金もカメラも、フィルムもない。そこで、OBの協力を募ったり、赤坂プリンスホテルなどでダンスパーティを催したりして、制作資金を蓄えていった。
撮影に使用したのは16mmフィルム。映画は、ニュース制作会社にカメラを借りて撮影した。また、映像につける音声は後で録音する「アフレコ」であった。スタジオが空いている真夜中に缶詰になり、夜を徹しての録音作業。2日間くらい徹夜して作業を進めた。
日本大学芸術学部よりも映画制作が早かった学習院では、昭和25年頃から2年に1回ペースで映画制作が行われたが、昭和34年から年1本ペースで作られた。この頃になると、他大学との交流も活発化。他大学との合評会も行われた。
学習院は四大学映画連盟に加入していたが、慶應、法政、明治、立教、早稲田からなる「都下大学学生映画連盟」への加入は長年の夢であった。この連盟が10周年を迎えた昭和31年、晴れて仲間入りを果たした。学生映画祭も開催され、制作も盛んに行われるようになった。学習院初等科を1年間ロケして制作された「学習院初等科」、学生生活やマージャン風景などを綴った初めての劇映画「青春の谷間」、子供を主役にしたファンタジー「あこがれ」など、実にさまざまな作品が作られた。
さて、現在の映画研究部はというと、技術の進歩でデジタルカメラを使った撮影が主流になっている。俳優は、部員の友人や演劇部の学生に依頼。半年に1回、上映会を行っている。映画を鑑賞する集いが、評論へ、そして制作へと変化してきた映画研究部。今日も部員たちは、カメラを手に新たなる映画の可能性を求めて、どこかに出没しているに違いない。


映画研究部発行の映画評論誌「マアゼ」
 
昭和34年の映画研究部自主映画「木立の影」制作ドキュメント

 学習院大学映画研究部が、制作活動の初期からこだわりつづけてきた16mmフィルムの映画。第1作目の「学習院大学文化祭」(昭和27年)から数えて6作目が、昭和34年に制作された「木立の影」だ。時間にして38分の長編劇映画は、足掛け2年をかけた大作であった。
この映画は、原爆症の恐怖によってのどかな生活を破られていく学生の姿を描いた作品。昭和33年7月に開かれたシナリオ選考会議では、部員から12篇のシナリオが出されたが、なんとすべて不採用。翌年の2月まで持ち越しとなり、篠原壮太郎氏(昭35経)のシナリオ「白と黒のたわむれ」が採用された。しかしそのシナリオも6回書き直しが行われ、「木立の影」のシナリオがようやく完成したのである。
役柄には外部の俳優も配し、3月4日にクランクインした。主なロケ地は四谷や世田谷で、連日9時30分~16時30分の7時間に及ぶ撮影が続けられた。約1ヵ月後にクランクアップ。撮影終了時には、予定のフィルム巻数をはるかに超えるほど、情熱を注ぎきった作品であった。
撮影が終わると、次に待っているのが作品をうまくつなぎ合わせる編集作業である。編集作業は部員の家を互いに行き来して行われた。費やした作業日数は延べ10日。そして、ようやく録音の作業に移った。
4月17~22日の6日間、アサヒスタジオで行われたこの作業は、連日徹夜。作業終了時には、全員がグロッキー気味であった。この力作は、第4回全日本学生映画祭に出品されている。