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陸上競技部 創部125周年記念祝賀会開催報告


令和6(2024)年10月14日、輔仁会陸上競技部の創部125周年記念祝賀会を百周年記念会館にて開催致しました。
祝賀会には、耀英一院長をはじめ、学校法人の役員の皆様、東園基政桜友会名誉会長、諸戸清郎会長、父母会から神山直己会長、男子中高等科、女子中高等科科長、陸上競技部顧問の先生方、更には甲南大学や筑波大附属、成蹊大学の陸上競技部OB会の幹部の皆様など、陸上競技部を語る上でなくてはならない多くの方々にご出席頂きました。当日は、休日開校日にて、授業のある現役部員達は残念ながら出席が叶いませんでしたが、ご来賓をはじめ、多くの陸上競技部のOBOGが参加し、140名近い出席者で会場が一杯になりました。

記念式典においては、冒頭、山田吉彦後援会長の挨拶から始まり、陸上部の活動や現況の報告が行われ、その後、耀院長からもご挨拶を頂きました。
陸上部の長い歴史を振り返り、数多くの選手達を輩出してきた競技部に対し、これからも益々頑張って欲しいとエールの言葉を頂きました。その後、清水洋二125周年記念祝賀会実行委員長より、長きに渡る陸上競技部への支援に感謝の気持ちで耀院長へ寄付金贈呈を行いました。また、後援会活動において、陸上競技部の支援に尽力されたOBへ感謝状と記念品の贈呈を行いました。その後、125周年の軌跡をスクリーンで紹介し、古くは志賀直哉氏の棒高跳での活躍の紹介やインターハイでの連覇、関東インカレ優勝者、入賞者の紹介や最近では川内優輝選手の箱根駅伝での活躍等、中等科から大学までのオール陸上部の足跡の紹介が行われました。明治32年から続く伝統ある陸上競技部の歴史を本院のみならず、ご招待した長年の良きライバル校の方々も時に拍手を交えながら映像に見入っていました。記念式典の最後は、川内選手が登壇し、箱根駅伝の思い出や色々なエピソードを交えながらの記念講演を行いました。学習院初の箱根駅伝ランナーの講演は、臨場感あふれる内容で式典会場の場をより一層盛り上げました。

続いての懇親会では、最初に陸上競技部後援会・岡田佑顧問よりの開会の挨拶、大西健一125周年記念祝賀会事務局長の乾杯でご出席頂いた方々皆さんとのお祝いの盃を交わしたのち、甲南大学や筑波大附属、成蹊大学のOB会会長の方々からお祝いのお言葉を頂き、会場は大いに盛り上がりました。また、女子部時代に走高跳で活躍され、インターハイでも優勝経験をお持ちの大岡久恵さんからも陸上競技部の長い歴史に対して賛辞を頂き、続いて、陸上競技部監督の羽田雄一先生からの陸上部の活動についての報告や練習環境やコロナ禍を経て現役部員達の苦労や大変さの話を聞き、OBOGも改めて現役部員達に対しての労いの気持ちを持ちました。その後、井坂優太 陸上競技部主将から、部員一人一人がチャレンジ精神、目標を持って自己記録の更新を目指していくという力強い決意表明を受け、出席者もより支援、応援をしていきたいという思いを胸にしました。懇親の時間もあっという間に時間が過ぎて125年の歴史を語る上ではとても短い時間でしたが本院のみならず、他校の良き仲間達との親交をより深められる素晴らしい懇親会となりました。

会の終盤には、應援團も駆けつけ、ブラスバンドと共に院歌斉唱となりました。会場が一体となり、声高らかに会場には院歌が響き渡りました。最後には、陸上競技部後援会 川﨑誠副会長より中締めの挨拶となり、125周年記念祝賀会は盛会の内にお開きとなりました。

中等科から大学までの多くのOBOGが日々練習と努力を重ね繋いできた襷を、今の現役部員達も受け継ぎ懸命に練習に励み、目標達成を目指して頑張ってきたこの125年の歴史と伝統に感謝するとともに、これからの陸上競技部の更なる飛躍を願う、素晴らしい一日となりました。後援会活動がより活発になり、現役のサポートにつながればと思います。

文責 蛯原久敬(陸上競技部後援会 副会長)


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陸上競技部の歩み

昭和7、8、9年のインターハイで、前人未到の3年連続優勝を成し遂げる。

日本の近代陸上競技の発祥は「運動会」からはじまったといわれる。学習院における陸上競技の発祥も、明治23年、当時の皇 太子殿下(後の大正天皇)が赤坂離宮で行った運動会であった。皇太子殿下ご自身も競技に参加されたという。
その後、明治29年になって輔仁会主催の運動会が四谷の運動場で開かれた。こうした運動会がきっかけで明治32年に「徒歩部」が誕生。陸上競技部の歴史 がスタートした。
当時、陸上競技の分野では一高がその強さを誇っていたが、明治34年の駒場農科大の招待レースで海江田幸吉氏(明36旧高)が四百米で優勝し、学習院の 活躍がはじまった。
同時期、意外な人物が学習院の陸上の歴史に登場する。白樺派文学の巨頭であり、日本文学界の一時代を形成した志賀直哉(明39旧高)である。「文章の神 様」と呼ばれた志賀は、意外や意外、スポーツ万能の青年で、棒高跳をはじめ、器械体操や野球などでも活躍していた。
大正時代になると、全国陸上大会が開催されるようになり、学習院の選手も出場。第1回と2回の大会で内藤政邁氏(大5旧高)が走高跳で日本新記録を樹立 して連続優勝。第3回には増田久雄氏(大7旧高)が棒高跳で、第6回と8回には伊達十郎氏(大10旧)が走高跳で優膠するなど輝かしい戦績を残した。
こうして大正5年、学習院徒歩部は「競走部」と名を変えた。その後も学習院の勢いは衰えることなく、大正11年のインターミドルでは、低障害で山田義重 氏(大11旧高)が優勝。宇佐川武雄、島津久大(以下大13中)、南部信雄、中村謙七(以上昭2旧高) の各氏も健闘し、全国制覇を達成した。
第1回目の全国インターハイが開催されたのが大正15年。俊足で知られた南部信雄氏が、棒高跳で記念すべきインターハイ初優勝。会場の神宮外苑競技場に は「大瀛の水」が響き渡り、桜章旗が大空に翻った。
そして昭和6年、競技部の第1次黄金時代が始まった。関東インターミドルで優勝を果たした学習院中等科チームが、全国インターミドルにおいて全国制覇を 成し遂げたのだ。
その中心となった小池正英、山田貞夫、実吉安彦、福岡孝行(以上昭10旧高) の各氏が高等科に進み、第7回から9回の全国インターハイで不滅の三連覇 を成し遂げてしまった。これは、永遠に語り継がれるべき学習院の栄光である。
三連覇の主力選手が卒業したあとも、競技部の活躍は続いた。第2次黄金時代といわれる昭和15年のインターハイの優勝だ。佐久間秀明氏(昭16旧高)を キャプテンに、森田和彦、菅原皓、山本忠良(以上昭16旧高)、山尾信一、稲田植輝、田敏夫(以上昭17旧高)の各氏が出場。総得点61点を獲得し、堂々 の優勝。史上最多4回の全国制覇の記録を樹立した。
戦後、大学と新制高等科が誕生してからも、学習院陸上競技部の活躍は続いている。創部101年目の昨年には中等科陸上部が全国大会に出場し、決勝で立派 な走りを見せた。「お坊ちゃん学校」というイメージに隠れた真の強さ。それは今もなお学習院のどこかに息づいているような気がする。学習院陸上競技部に黄 金時代が再び到来するのも、そう遠い未来ではないかもしれない。