剣道部の歩み

学習院における剣道部の歴史は明治にまでさかのぼることができる。しかし、当初は部としてではなく、あくまでも授業の一環としての剣道であった。これは、剣道をはじめとする武道が当時それだけ重要視されていたという証であろう。 明治十二年三月制定の学則によると、男子部の一科目として剣柔術が挙げられており、同年十一月七日に道場開きがおこなわれ、十一月十八日より榊原鍵吉を教師に招き、剣道科目として授業が開始された。明治十五年度まで、中等科では正課の授業として取り入れられていたが、以降は随意科目とされた。また明治十四年四月十五日には明治天皇が学習院にご来校になられ、体操・馬術とともに剣柔術をご覧になっている。 明治十九年になると、一時剣道・柔道の二科目は廃止されたが、同二十四年には復活し、同二十九年十月十日には剣道大会が開催された。その成績がよかったこともあり、この大会は毎年開催されることが決定した。また明治三十八年からは満十歳以上の希望者に、放課後剣道を教授することとなった。 明治四十年に第十代学習院長に就任した乃木希典は、特に剣道を奨励し、自ら竹刀を持って指導されたと言われる。 剣道部・柔道部などの武課は、はじめに見たように終戦間近まで輔仁会所属ではなく正課時間外武課に位置付けられ、剣道部は昭和の剣聖と謳われた持田盛二範士をはじめとするそうそうたる師範のもとで中・高等科合同で運営され、また修業学生には進級試験と教官の考査により級や段位が与えられるなど活発な活動がおこなわれていた。、対外試合などの活動においては輔仁会所属の運動部とほとんと変わることなく活動していた。そのような状況の中で、昭和十八年には輔仁会は初等科・全教職員・学生を含む形に改組された。剣道部などの武道各部も、この時をもって正式に輔仁会所属となった。 しかしこの後、戦火は激しくなっていき、昭和二十年四月十三日の大空襲で目白の本館などの木造建築物のほとんどが消失してしまう。柔剣道場も消失しかけたが、学習院防護団員として宿直にあたっていた桜井槌蔵師範らの懸命の消火活動によりその難を免れ、同年五月五日から剣道・柔道部員が交代で道場防護のために宿直にあたった。この活動により柔剣道場は戦火をくぐりぬけることができた。しかし敗戦後、文部省の通達により武道が禁止となり、弓道・柔道部などとともに剣道部もその通達により活動を禁止される。 剣道が復活するのは昭和二十八年になってからである。現在の剣桜会の副会長である大井昭彦氏ら七人が剣道修練会と称する同好会として活動を再開した。活動再開には、剣桜会の先輩、佐藤蕃氏、そして故秋田一季氏が多大な協力をし、この二人を通じ多くの先輩や協力者を得た。当初、焼け残った道場は、まだ教室などとして使用されており、中央大学の道場などを借りたり、現在の大学北一号館辺りの天覧台付近地面や、時には道場の机や椅子を動かしてスペースを確保したりしながら稽古を続けた。このような苦しい時代を乗り越えて昭和三十三年に部としての活動を認められ、同年には寒稽古も復活した。 また対校試合では明治四十三年から独逸学協会中学校(現在の独協中学校)と、大正十三年十月からは東京高等師範学校附属中学校と中等科の試合(現在の附属戦)が行われるようになる。この他にも多くの学校との対抗戦があったが、現在に至るまでこの附属戦が最重要視され、対抗戦の直前には特に熱のこもった練習風景が繰り広げられている。また大学では甲南大学との総合定期戦が昭和三十二年の第二回大会から、四大学運動競技大会が昭和三十五年の第十一回大会から剣道も正式種目に加わった。 現在剣道部では、女子部を含む全学剣道部合同稽古として、夏は菅平で合宿、冬は学内で寒稽古を行っている。または寒稽古では毎年、院長をはじめ大学長、各科長、各学校の剣道部長から納会に参加し、院長より新しい段級を允許され皆勤者へは賞状と木盃が授けられる。学習院の校規に掲げられた基本理念である一貫教育を現在まさに形として体験しているのがこの剣道部である。 そして、亡くなるまで剣道部を愛し続けていた、故秋田氏が剣道について語った言葉に「美しい剣道をしなさい。それが一生懸命やるということなんです」という言葉がある。この言葉を胸に道場に稽古を見に行くと、この言葉が今も脈々と剣道部員一人一人に生きているような気がした。監督や先輩の言葉を聞き、それを必死に実行する。汗にまみれながら相手に向かって打ち込んでゆく。「稽古は厳しく、そして部生活は楽しく」これが学習院剣道部に根付いた心である。