学習院観光事業研究部創成期の活動について(昭和33年卒 赤峰明氏)

令和5年(2023年)10月28日に観光事業研究部70周年記念大会を開催した際、昭和33年卒の赤峰明氏より観光事業研究部創成期についての手記を寄せていただきました。観光事業研究部にとって非常に価値のある記録と考え、ご本人承諾のもと、桜友会のホームページに掲載をさせていただきます。(昭和63年卒 山嵜仁)

我が観研は、昭和28年に学習院高等科出身の山田、大倉、鳥居氏達が企画をし、1年先輩の蒲生氏をトップに同好会としてスタートしました。やがて日比谷高校出身の中島、井上、千田の各氏をはじめ、全国各地出身のメンバーが揃いました。部員数は約30名でうち女性は数名でした。
昭和30年に輔仁会の部に昇格しました。初代委員長は山田氏、次いで千田氏、3代目が私、そして4代目は中根氏でした。兼部は可能でした。部室は本館1階南側階段の下で10名も入ればいっぱいでした。そこで週1回、部室前の教室に集まりました。階段のカウンターを利用してパンフ等を置き、旅の相談や案内をしました。
当時、鉄道研究会はなく、鉄道好きやハイキング・宿の手配等、多面的なニーズに応じました。土曜日は半ドンで授業がありましたが、午後が大いに活用でき、半日ハイクで深大寺や高尾山などに行ったり、ソフトボールをしたり、活発で部員の結束は良かったと思います。
年間活動としては、テーマを決め、分担して取り組み、まとめて大学祭で発表しました。昭和30年が「上野駅の1日」で、当時の国鉄上野駅駐在運輸長という偉い人が学習院の先輩で、特別なバッチを付けて、1日中駅構内を動き回り、取材をしました。昭和31年は上野駅を出発して、「信越線の旅」として横川へ行き、軽井沢のアプト式鉄道などを取り上げました。また昭和32年には「軽井沢」をテーマにしました。まだ草軽電鉄がありましたし、浅間山にも登りました。
当時、日本学生観光連盟が結成されました。早稲田観光学会、慶応観光研究会、立教ホテル研究会、そして大妻女子大の5校がメンバーで相互訪問、パーティーなどで交流しましたが、いつの間にか立ち消えました。
日帰りバスツアーを実施しました。まだほかではあまりありませんでしたので好評でした。特に目白文化服装女学院に売り込み、多数の参加を得て賑やかでした。学連や他大学の友人なども参加しました。観研メンバーはGTBの腕章をつけてリードしました。
近畿日本ツーリストの修学旅行に添乗をしました。主に京都・大阪・奈良方面、あるいは三浦半島などの日帰りもあり、結構ハードでしたが、良い体験になり、収入を得ることもできました。
当時の青春歌謡の大ヒット曲、岡本あつおさんの「高原列車は行く」を折に触れてみんなで口ずさみ、部歌的存在になりました。
特記事項として、荻野屋の「峠の釜めし」の誕生にからんだことを報告します。
これは1年先輩の中島氏の提供によるものです。同じく1年先輩の大倉氏が信越線横川駅で荻野屋の弁当販売員と立ち食いそばの店員が、発車の際、客車に向かって脱帽し最敬礼をしているのを見て感激、他の駅ではそっぽを向いて売上金を数えていて見向きもしないのが普通でした。そこで大倉氏が横川駅長に感動の手紙を出したところ、荻野屋から礼状が来ました。さらに昭和32年卒数名が年末に荻野屋を訪問し、同社の2階に1泊し、売上を伸ばすにはどうすれば良いか話に花を咲かせたことがきっかけで交流が始まりました。そこでメンバーのヒントで特色のある釜めしが生まれ「峠の釜めし」として1958年2月に横川駅で販売を開始しました。そして富山の「ますのすし」、北海道森町の「いかめし」とともに日本三大駅弁になったのです。㈱荻野屋の高見沢みねじ社長が「峠の釜めし」を販売している大学祭に来られ、金一封(1万円)を賜ったそうです。
今後、観研に望むことは研究にも注力して欲しいということです。ここ2~3年、コロナで活動が制限されていたことはやむをえませんが、それまでは毎年各地に合宿をされていました。大学祭で報告展示を見ましたが、はっきり言って物足りない感じです。現地の自治体や団体とも交流をし、発展へのアドバイス、提案等を提供するなど積極的な活動をして欲しいと思います。