月別アーカイブ: 2010年7月

第9回放研シニア春秋会の開催報告2010 

新緑の風薫る5月8日、霞が関ビル34階の「霞会館」において第9回放研シニア春秋会が開催されました。
桜友会からは耀副会長のご臨席を頂き、総勢41名の会員が参加されました。
最初に山本会長よりご挨拶があり、「最近仲間に会うと、孫と病気の話ばかり、今日はそういうことは忘れて大いに楽しもう!」と参加者に話かけられたのに続き、桜友会の耀副会長からは、ピラミット校舎の跡地に完成した中央教育研究棟12階に桜友会が利用できるラウンジが秋には開設されること、また現在学習院が進めている「教育改革推進資金」のご協力依頼の話がありました。今回は趣向を変えて、第1部に教養カルチャーを企画し、講師に当部出身のアナウンサー石井和子(旧姓山口)さんを迎えて、講演をお願いしました。演題は「天気で語る 源氏物語-平安の気象予報士 紫式部」。石井講師は長く気象予報士会の会長を務め、講演と同名の著書で日本文芸大賞研究優秀賞を受賞するなど、多くの分野で現在も活躍中です。紫式部が生きた平安の雅の世界にも厳しい季節の移り変わりがあった、ことが印象に残りました。
その後、懇親会に移り懐かしい仲間たちの笑顔に華が咲いた様な雰囲気があちらこちらに……、楽しい時間が瞬く間に過ぎていきました。
来年もまた、是非お会いしましょう!!

<訃報>
砂田昌宏さん(S36卒・政経)71歳
シニア春秋会には毎年必ず参加され、今回も快活なご様子で参加されておりましたが、6月22日に急逝されました。 故人のご冥福をお祈りし、謹んで皆さまへお知らせ申し上げます。
合掌  (S41法 千葉記)

第23回 オール学習院の集い

第23回 オール学習院の集い

第23回 オール学習院の集いは平成21年4月19日(日)学習院大学目白キャンパスで開かれました。

春爛漫のこの日は汗ばむほどの陽気でした。桜友会ハワイアンクラブも昨年に引き続き西5号館B-1教室でハワイアンの演奏とフラをご披露しました。

当日は 戦前の先輩たちのハワイアンの伝統を引継ぐカルアカマアイナス、その後のハワイアン全盛時代に結成されたドリーミーアイランダース、陽気なハワ イの海を思わせるハニープリーズ、そして、学生時代に活躍した3つのバンドが一つになったマリエ・ルナ フレンズたちが、懐かしのメロディや現代のハワイ アンミュージックを心ゆくまで奏でました。それに、華麗なフラダンスも加わり盛況のうちに幕を閉じました。

カルアカマアイナス

ドリーミー アイランダース

ハニーブリーズ

マリエ・ルナ フレンズ

Kaloke

Lovery Hula Hands

Waikiki

桜友会ハワイアンクラブの今後の予定

桜友会ハワイアンクラブでは来る秋の10月17日(土)3:00PMより 霞会館で第4回総会とともに、ハワイアンへの誘いを開催します。

会員とその家族、桜友会メンバー、現役でハワイアンやフラに興味のある方々はこぞってご参加下さい。 詳しくは後刻このページでご案内します。

桜友会ハワイアンクラブ

会長 
桜友会ハワイアンクラブの概要

当クラブは、ハワイの音楽および文化を通して、会員(学習院卒業生、在籍者および中退者ならびにその家族)の相互の親睦を図ると共に、学習院と桜友会の 発展に寄与することを目的とする会です。

クラブの活動は、年二回の懇親会行事や演奏会など開催し、会員相互の親睦に努めています。現在の会員数は、常陸宮妃殿下をはじめ昭和16年から平成8年 までの長きにわたる卒業生136名が登録されています。

会長および幹事は次の通りです。

会 長 昭 35年大卒
幹事長 山東直樹 昭36年大卒
幹 事 石島道章 昭35年大卒
速水喜七郎 昭37年大卒
今枝幹雄 昭37年大卒
渡辺佳恵 昭35年女子高卒
大野容子 昭43年大卒
会計幹事 宮本 明 昭37年大
会計監査 津田 守 昭37年大卒
特別顧問 毛利元海 昭33年大卒
山東直樹
247-0008
神奈川県横浜市栄区本郷台4-9-23
Tel/Fax: (045) 893-4828
e-mail:n-santou@nifty.com
今枝幹雄
108-0074
東京都港区高輪4-9-18
Tel/Fax : (03) 3449-1289
e-mail:rosa-ima@ma.rosenet.ne.jp
速水喜七郎
255-0004
神奈川県中郡大磯町東小磯802-36
Tel/Fax : ( 0463) 61-7937
e-mail:mmnsm871@ybb.ne.jp

会 長 昭 35年大卒
幹事長 山東直樹 昭36年大卒
幹 事 石島道章 昭35年大卒
速水喜七郎 昭37年大卒
今枝幹雄 昭37年大卒
渡辺佳恵 昭35年女子高卒
大野容子 昭43年大卒
会計幹事 宮本 明 昭37年大
会計監査 津田 守 昭37年大卒
特別顧問 毛利元海 昭33年大卒

気鋭の講師招き講演会・・・桜史会(史学部)

気鋭の講 師招き講演会
平成15年9月27日(土)、会員の水野僚子氏を招き、学習院百周年記念会館2階講堂に於いて、”「一遍聖絵」を読みとく-現代に語りかける「聖絵」”とい う演題で講演会を開催した。
講師は大学院(博士課程)を修了後、学習院大学を始め他の大学でも講師を務めており、現役部員にも非常に人気があり、また、日本美術史学会論文賞の第1 回受賞者で、注目を浴びている若手研究者です。講演会は会員、現役部員等80名の参加を得て、難しいテーマにもかかわらず、非常に分り易く話され、参加者 は充実した講演に納得、満足した一時を過ごすことが出来ました。

従野明宏先生”感謝の集い”

従野明宏先生”感謝の集い”

平成14年6月8日(土)霞会館に於いて前中・高等科長の従野明宏先生ご夫妻をお囲みしてバスケットボール部OB・OG会 の「高等科部会」主催のもと”感謝の集い”を開催。永年にわたり先生にご指導を賜りました教え子一同、海外を含め全国からOB・112名、OG・32名と 多数の参加者とともに楽しい一時を過ごして先生ご夫妻への感謝の気持ちを表しました。

歩いて登って50年

まもなく創立50周年を迎えるワンゲルOB・OG会員は、400人を越えています。新潟県湯之谷村の銀山湖近くに建てた蛇子沢小舎も、あと2年で40周年とな ります。
部室で流した涙、小舎を愛した思いがひとつになる2年後の50周年記念イベント立案中。
70歳になった一期生をはじめ、老若男女が気軽に参加できる数々の催事(春草摘み・キノコ採り・俳句紀行など)を企画し、ウォーキングを楽しんでいま す。
更新日 05/05/2009 21:18:20

高等科優勝祝賀会

高等科優勝祝賀会

昨 年、春季都大会並びに秋季都大会(10人制の部)に見事優勝した高等科ラグビー部の栄誉をたたえその喜びを分かち合うために祝賀会を開催した。
春季大会は、5月14日成城学園との決勝戦を48対12で制し栄冠を勝ち取った。
6月17日行われた優勝祝賀会には、従野高等科長先生並びに賀陽桜友会長のご臨席を賜り、父母・高等科教員・OBとともに部員達の勝利を祝った。
秋季大会は、11月12日に日大二高を相手に決勝を戦い、29対7のスコアで優勝を勝ち取った。
更新日 05/05/2009 21:18:13

バドミントン部の歩み

創部の歴史「バドミントン部の歴史」

日本でのバドミントンの始まりは1920年~30年のことであったが、その後、第二次世界大戦のために普及活動が停滞し、 本格的にバドミントンが普及し始めたのは1946年以降であった。
そのような中、学習院大学においてもバドミントンを愛するものが集い、 1952年、同好会としての活動を開始した。創部翌年の1953年からは四大戦、 さらに1956年からは甲南戦など、現在も続いている定期戦に参加し、 1980年からは関東学生バドミントン連盟の加盟大学として、 春秋リーグ戦・関東選手権大会・同新人選手権大へ出場するようになった。
又、1981年には同好会始まって以来の桜友会名簿の作成を行うなど、 地道な活動を続けた結果、1983年には念願であった「輔仁会運動部」への昇格を果たし、 新たなスタートを切ることとなった。
現在、バドミントン部は男子5部、女子4部リーグに在籍しているが、 過去には男子3部、女子2部リーグでプレーしていた時もあった。
そのような先輩方に少しでも追いつけるよう、そしていつかはその記録を 追い抜くことができるよう、日々努力している。

ソフトボール部の歩み

齋藤滋雄部長の退官を祝う会

平成17年2月26日、学習院大学ソフトボール部の部長兼監督として40数年にわたってご指導いただいた齋藤滋雄教授の定年退職を記念する会が目白で催された。男・女ソフトボール部OB会を中心に現役部員をまじえた記念の会で、午前中は大学北グラウンドでの現役対OB戦、午後は百周年記念会館小講堂での200名を集めた「退官を祝う会」と、終日をかけた盛大なものとなった。
学習院大学のソフトボール部は、まさに齋藤先生とともに歩んできた部である。順天堂大学を卒業した先生が学習院大学の助手として奉職したのが昭和32 年。同36年に任意団体のソフトボールクラブを創設、部長兼監督に就任する。翌37年には日本ソフトボール協会、東京都ソフトボール協会に登録、愛好会に昇格。同42年の同好会昇格を経て、同49年に正式に体育会運動部となる。同55年からは女子ソフトボールクラブの部長兼監督も兼任し、同58年には女子も体育会運動部となった。
この間、助教授となった昭和42年10月には、埼玉で行われた第22回国体秋季大会に出場し優勝を果たしている。この年は名選手が多く、7月の全日本大学ソフトボール選手権、8月の全日本男子ソフトボール選手権でも準優勝を勝ち取った。

昭和52年には教授となるが、ソフトボールへの情熱は今日に至るまで衰え知らずで、ソフトボール界での役職も、平成17年2月現在、東京都ソフトボール協会常任参与、東京都大学ソフトボール連盟会長、関東大学ソフトボール連盟会長、東日本大学ソフトボール連盟会長、全日本大学ソフトボール連盟副会長、といった具合だ。
多くの学生に慕われ、学習院大学での職責を全うした熱血指導の名物教授、齋藤先生に、今、感謝の気持ちを伝えたい。平成17年1月18日には最終講義も行われた。

雪桜会の歩み

オーストリア陸軍少佐との氷上の出会い。
その偶然が日本の、そして学習院の スキーの歴史の偉大な一歩となった!

学習院の学生がスキーを始めたのは、はるか明治44年(1911)12月まで遡る。当時来日中だったオーストリア陸軍のテ オドール・フォン・レルヒ少佐が長野県の塩尻峠から諏訪へと下った折に、諏訪湖で学習院の学生たちに出会った。彼らはその時は「スキー」ではなく「スケー ト」を楽しんでいた。レルヒ少佐は、その輪の中に入り、彼らとしばしスケートを楽しんだという。この偶然ともいうべきレルヒ少佐との出会いで、翌年1月5 日に二荒芳徳、三島弥彦(日本人で初めてオリンピックに出場した陸上の選手)、相馬正胤、三井高公、戸田安定、有馬行郎の各氏が、レルヒ少佐から直接ス キーの手ほどきを受けることになった。これが学習院のスキーの始まりであり、日本に初めてスキーがもたらされた瞬間であった。
大正6年(1917)には、新潟県の関温泉でスキーの一般合宿(初心者指導のための合宿)が開始され、2年後には、山岳部とスキー部から成る「学習院輔 仁会旅行部」が誕生した。旅行部が創設されてからは、新設の山岳部とスキー部を統括し、夏は登山、冬はスキーが行われるようになった。山岳部では、25日 間に及ぶ「カムチャッカ旅行」をはじめ、15日間の「シベリア旅行」などを、一方、スキー部では、「関温泉スキー合宿」が行われ、47名もの学生が参加し た。その後も活動は順調に続けられ、大正13年(1924)に旅行部から「山岳部」へと改称。この後、スキーは山岳部の活動の一つとして行われるようにな る。
この合宿には、歴代の院長もたびたび訪れている。大正14年の合宿に は、第14代の福原鐐二郎院長がかんじきを履いて訪問。土産に「カステラ」持参し、スキーを試乗したという記録が残っている。
その後も山岳部によってこのスキー合宿は続けられたが、日本が太平洋戦争に突入したことに伴い、活動の中断を余儀なくされた。終戦後の数年は食糧事情の 悪化で合宿ができなかったが、昭和24年冬、有志により再び「関スキー合宿」が復活する。翌年12月には山岳部の主催で再びスキー合宿を再開。学習院のス キーに対する情熱を強く感じる。
昭和32年になると、山岳部の中から、活動をスキーにしぼった「スキー部」の設立を目指す部員が現れた。部内外から部員を募り、10名程度が集まった。 そして翌年、「スキーくらぶ」が誕生。これが学習院大学スキー部の始まりである。
当初は男性部員が多かったが、女性部員も次第に増加。昭和34年に「スキークラブ」とすべてカタカナの名称に変更し、40年まで続いた。そして41年に は同好会に昇格して「スキー同好会」と名称変更。部員数もかなり多くなり、スキー部の黄金時代を迎えた。わずか4年後の45年にはついに部に昇格、「ス キー部」となり、現在に至っている。
スキー部は現在、「ノルディック班」「アルペン班」「一般班」の3班体制で活動。一方、OB・OGは「雪桜会」の会員として、後輩たちの支援にあたって いる。
今ではウィンタースポーツとして当たり前の存在になっているスキー。その歴史は、学習院スキー史と学習院スキー部史に重なるといっても過言ではないの だ。

柔桜会の歩み

嘉納治五郎師範の辞令。明治19年に学習院の教授兼教頭になった時のもの

学習院の柔道の歴史は、講道館の創設と同時期に始まった。講道館柔道の創設者・嘉納治五郎師範が政治学・理財学の講師として、明治15 年(1882)1月に学習院に奉職。翌16年4月、院内に柔道場が完成し、学校が柔道を日本で初めて正科(正規の学科)として採用した。中等科以上の希望者を対象に、師範自ら指導を行ったのである。
当時、華族会館の附属施設であった学習院は、その生徒の大半が華族の子弟であったため、危険が伴う柔道に対しては、父兄の否定的な意見が多かった。しかし、嘉納師範の柔道に寄せる情熱を初代の立花院長や谷第2代院長が理解し、いわば反対を押し切る形で柔道が行われた。

柔道部の創部については、正確な記録が残っていない。だが、明治31年の「輔仁会雑誌」に、初めて「柔道部」の名称が使用され、記述されていることから、この頃が創部と考えられる。
学校では、武道の一つとして明治21年に「柔道修業生徒規則」が定められ、放課後に同好の学生によって稽古が行われていたが、同41年になると、中等科 3・4年の一部の学生に毎週1回、武課正科として課されるようになった。大正11年に柔道、剣道、弓術、馬術は正科外武課として、それぞれ「部」と称することが認められるようになった。
最初の対外試合は、明治24年の第一高等中学校柔道大会への出場だ。以後、講道館や北辰館などの選手と試合をしてきたが、学習院では他校より早く柔道が行われていたため、大半の選手が勝利する圧倒的な強さを誇っていた。いずれにしろ、当時は武道の正科として柔道大会が学校行事で開催され、院内学生同士の試合のほか、他校学生との対外試合が行われており、今日の部活動の趣とは異なっていたのである。
昭和18年、輔仁会所属の「部」となったが、昭和20年の終戦とともに、武道授業の禁止と正科外の学校における部活動の禁止が通達されたため、62年の歴史を持つ柔道部は廃部になった。柔道部にも戦死されたOBがいたことを記しておきたい。
昭和25年、GHQの許可が出て、学校の柔道が復活。昭和27年に新制高等科が「柔道同好会」、大学が「体育研究会柔道部」を結成し、目白警察の道場を借りて稽古を開始した。この後、学校側から放課後のみ使用するとの条件付きで教室(旧道場)の使用許可が下り、OBから畳30畳の援助もあって、院内で稽古ができるようになった。
さらに、昭和29年に高等科、翌30年に大学がそれぞれ「部」に昇格し、新制中等科にも昭和40年に「柔道同好会」が発足、同42年に「部」に昇格した。
さて、OB会「柔桜会」の発足は、昭和28年のこと。翌29年には第1回総会を霞会館で開催し、今では会員約400名を有する大所帯になった。毎年6月に定例総会を行っているほか、忘年会や寒稽古、オール学習院の集いで現役との交流試合など、活発な活動を行っている。
平成15年、学習院柔道は120年、柔桜会は50周年という記念の年を迎える。創始者の嘉納師範が残した「努むれば必ず達す」の教えは、今でも多くの OB、現役の心に深く刻まれているのである。

昭和9年頃の学習院中・高等科柔道部。2列目の右から7番目に写っているのは島津久厚院長(当時中等科4年)

昭和35年1月15日に旧道場で行われた寒稽古。左上の書は嘉納治五郎師範直筆のもの