投稿者「jimu-master」のアーカイブ

櫻廣会(学習院大学広告研究会)

【基礎データ:広告研究会の設立は、昭和36年・1961年です】

第33回オール学習院の集い(2019年4月14日)

第32回オール学習院の集い(2018年4月15日)

第31回オール学習院の集い(2017年4月16日)

第30回オール学習院の集い(2016年4月17日)

創立50周年記念誌「ラ・レクラーム」復活版2011年6月25日発行

平成11(1999)年11月27日(土)午後6時より、学習院大学創立百周年記念会館にて平成11年度櫻廣会総会が開催されました。各代の貴重な記念写真が披露され、時の経過をつくづくと感じました。

平成10(1998)年7月18日(土)午後6時より、学習院大学さくらラウンジにて平成10年度櫻廣会総会が開催されました。23・24・25期の幹事の皆さんご苦労様でした。最後に、第一期の杉 忠重先輩の一本締めにて総会を終了いたしました。

ありしの 1期 杉忠重 氏

ありしの 2期 浦辺穣一 氏

3期 皆川 峻 氏

5期 平井良介 氏

【物故者】
杉 忠重 (第1期)2018年10月11日没、享年76歳
浦辺穣一 (第2期)
土屋源保(第3期)
林 泰彦(第3期)
田口恵美子(第7期)
近藤雅美(第7期)
亀掛川光生(第10期)
福原孝史(第18期)
あらためてご冥福をお祈りいたします 合掌

★櫻廣会会長 荒田真一郎(昭52経) bmw523i04@yahoo.co.jp
★櫻廣会世話役 李 春成(昭54政) leevancreaf@gmail.com

 

桜鞍会「お花見会」開催のご報告2019

今年は「目黒川のお花見クルーズ」を企画、35名が参加して4月2日(火)に開催されました。

午後2時に天王洲ヤマツピア桟橋を出航し、目黒川水門から満開の桜に彩られた目黒川に入る素晴らしいコースでした。

両岸に咲いた桜を鑑賞しながら、時おり橋の上から手を振る花見客に応えたり、ゆったりとした時の流れを楽しみながら目黒雅叙園付近まで航行したあと、70分余りのクルーズを終えて船は再び天王洲の桟橋に戻りました。

下船後には桟橋前にある地中海料理のレストランで懇親会が開かれました。
遠方は熱海や名古屋から、また年齢も10歳~83歳と幅ひろい年齢層の会員とそのご家族を迎えて年代を越えたおしゃべりに花を咲かせ、和気あいあいとした楽しい会となりました。
中にはちょうどアルゼンチンから一時帰国をされていたご兄弟を同伴されての参加者もいらっしゃり、久しぶりの日本のお花見を楽しんでいただけたようです。

近年は桜の開花が早く、3月中には咲き終えていることが多かったので開催前の一週間は天気と気温、桜の開花状況を何度も確認する毎日でしたが遊覧中には陽射しもあり、概ね良い天気のもとで終えることができたことは幸いでした。
今年は例年よりも花もちが長く、皆さんにはつかの間の春の恵みを満喫していただけたと思います。

第8回 音楽愛好会OB・OG会 総会・懇親会開催のご報告2019

平成31 (2019) 年3月30日(土)桜満開の目白キャンパス、目白倶楽部において第8回学習院音楽愛好会総会・懇親会が催されました。
ご来賓に学習院院長内藤政武様、学習院専務理事耀英一様、学習院桜友会副会長玉置直美様、そして音楽愛好会部長でいらっしゃる理学部教授の川崎徹郎様をお迎えいたしました。総会に先立ち学習院大学OGでいらっしゃるピアニストの松村百合子さんと、ヴァイオリニスト金子昌憲さんのミニコンサートが行なわれ、今の季節に相応しいベートーベンのスプリングソナタなどその美しい旋律は音楽好きの皆様を大変魅了致しました。総会では鈴木会長が退任し菅原副会長が会長になることが承認され、懇親会では、演奏家お二人に加え若いOBや音楽愛好会の現役学生も加わり和気あいあいの大変暖かい雰囲気のOB・OG会となりました。

松村さん、金子さんの演奏に聴き入る

内藤政武院長と若いOB、学生

初乗会開催のご報告(桜鞍会) 2019

平成31(2019)年3月16日、桜鞍会主催の恒例行事の初乗り会が開催されました。
前日の予報では大気が不安定で雨が降るかもしれないという心配な状況でしたが、当日は予想外の晴天で絶好の初乗り会日和となりました。日頃、馬術部をご支援いただいている来賓の皆様に加え、院からも内藤院長、耀専務理事、江崎常務理事にご出席を賜りました。
大輪の白木蓮が咲く馬場で、まずは学生によるカドリールと部班運動が行われます。音楽に合わせて優雅に人馬一体の演技をする様子にうっとり癒されました。
次に、会員による琴平競技です。この日のために乗馬クラブで練習を積んでいらしたというベテランのOBの方も機敏な動きで枠に滑り込みます。観客からも笑いや歓声のあがる盛り上がりを見せました。
お昼からは桜ラウンジに場所を移して懇親会が行われました。懇親会では桜鞍会の勝田会長からの冒頭の挨拶の中で、「本日の初乗り会に、内藤院長はじめ院のトップの方々にご出席いただいた事と日頃の学校の馬術部に対するご支援に深く感謝申し上げます。本年は、明治12年に『学習院馬術開業式』が開催されて140周年の記念の年になりますが、現役の部員諸君は連綿と続いている馬術部の栄光の歴史に相応しい結果を出すように精進してほしい」とのお話がありました。
桜友会の東園会長の乾杯のあとの内藤政武学習院院長からのご挨拶では「今回初めて琴平競技を拝見しましたが、大変面白く、学校経営の良いヒントになりました。」とユーモア溢れるお言葉をいただきました。
懇親会は学生を含めて総勢約100名の大変賑やかな会となりました。ビンゴ大会ではとても素人とは思えないほどスピーチが上手な学生さんの司会により、大人から小さなお子様まで楽しめる笑いの絶えないゲームになりました。
今回の開催にあたって、現役学生の方々と多く接しましたが、どなたも皆テキパキと行動される様子にさすが学習院馬術部!ととても嬉しく思いました。

現役学生によるカドリールの様子

OB、OGによる琴平競技の様子

内藤学習院院長のご挨拶

東園桜友会会長による乾杯

勝田桜鞍会会長による琴平競技の授賞式の様子

懇親会の様子

「学生放送局70周年記念の会」開かれる

「学生放送局(GSRS)70周年記念の会」が平成31(2019)年2月23日、百周年記念会館小講堂で開かれました。昭和28年(1953年)卒から現役局員1年生(当時)まで138人が参加し、来賓として内藤政武学習院院長、東園基政桜友会会長、政治学科教授の平野浩学習院常務理事が出席しました。当初は中央教育研究棟12階の松本楼・目白俱楽部で行う予定でしたが、参加希望者が収容人数を大幅に超えたため急遽会場を変更しての開催となりました。
来賓あいさつでは内藤院長が現在の「勢いある学習院」の現状を、東園会長が西一号館での初期のGSRSの活動の記憶や、所属していた馬術部が「GRS」だったため親近感を覚えていたことなどを述べ、平成21年(2009年)までGSRSの部長を務めた平野常務理事の乾杯の発声で歓談に移りました。
会の半ばではアナウンサーとして活躍しているOBが紹介され、ベテランから元NHKの鈴木桂一郎氏(昭和50法)と近藤冨士雄氏(同57政)、若手からは福島放送の樋口陽一氏(平成28同)、福井放送の坂本優太氏(平成29)が登壇。ベテランと若手が、それぞれ現役時代に局内で使用していた「専門用語」を出席者に対してクイズとして出し合うなど、放送局らしい思わぬ「アトラクション」で盛り上がりました。
最後に大先輩の代表として原徳三氏(昭和28政)、武井絢子氏(同30同)が「GSRSは昭和24年(1949年)、審議会会長だった中村正軌氏(昭和27政)の発案から始まった」と述べ、屋上にトランペットスピーカーを局員自ら設置し、最低限の機材をかき集めた創立当初の苦心を語り、締めのあいさつとなりました。
この会の実現のため実行委員として会場設営、OBOGへの連絡、当日の運営からさらに立派な「記念誌」の作成まで尽力した4年生(当時)の中田隆徳氏、齋藤塁、西村実結の各氏に感謝の意を表します。

(文責:中野薫樹・昭和60済)

新艇エイト「颯」進水式

エイト 颯 (はやて) の進水式は、平成31(2019)年3月10日(日)、学習院戸田艇庫において、桜友会長 東園基政様のご臨席を仰ぎ、多くのの桜艇会会員が参集して開催されました。
第一部の進水式は、和楽備(わらび)神社によって行われ、創部 130 周年の節目にふさわしく厳粛に挙行されました。ご多忙な中をご出席いただいた東園会⾧からは、命名いただくとともに、今後の漕艇部への期待が込められたご挨拶を頂戴しました。
その後、学習院戸田艇庫 2F において懇親会が行われました。懇親会では、大学漕艇部・張谷主将より、新艇建造にあたってご支援いただいた皆様への感謝の気持ちとともに、今後の抱負が述べられました。
最後に、大学漕艇部・森下くん、横山くんのエールで結ばれ、進水式の全日程が盛会裏のうちに終了しました。
改めまして、エイト建造にあたりご支援・ご協力いただきました桜友会の皆様、学校関係者の皆様、桜艇会の先輩方に深く感謝申し上げます。

桜艇会事務局 安部健太

<進水式出席者(敬称略)>
東園基政桜友会⾧、和光純大学漕艇部⾧、小林孝之輔、鈴木信太郎(S34)、 松尾俊吉(S36)、岩城政三(S43)、芳我孝雄(S42 高)、児玉元(S47)、黒田努(S51)、松高直茂(S53)、前岡一郎、小林直樹、中山雅之、片野築、土屋哲夫(S58)、笠原正晃、浮田秀明、松浦雅仁、石井秀幸(S59)、高城彰吾(S60) 竹内理秀(S63)、清水俊輔(H5)、中澤誠一郎(H7)、和田克之(H18)、横堀翠(H21)、安部健太(H22)、照井友樹(H25)、内藤晧文、岩下玲(H26)、 恩田裕梨香、坂本江梨、澤地栞莉(H27)、渡邉直樹、尾上由紀子、薄木日向(H28)、相川俊平、山口ゆり(H30) 37 名
ありがとうございました。

学習院俳句会 新年初句会開催

平成31(2019)年1月17日、恒例の初句会が霞会館において開催されました。今回は特別選者に玉藻主宰の星野高士、花鳥主宰の坊城俊樹の両先生をお招きして28名が参加。句会後の懇親会では、お二人からなつかしい母校学習院俳句会の昔話を伺い、楽しくも有意義なひとときを過ごしました。

●星野高士先生特選句
「墨を磨る音の香を生む二日かな」 湯口昌彦(34政経)
●坊城俊樹先生特選句
「初暦富士の高嶺の匂ふごと」 遠藤風琴(32短大)
●長嶺千晶先生特選句
「御破算で願ひましては年の暮」 宮田應孝(30政経)
●当日の最高得点句
「屠蘇酌むや戦禍を知りし喉仏」 長谷川祥子(35英文)

学習院俳句会は超結社の楽しい句会です。
毎月一回長嶺千晶先生(晶代表・57仏文)のご指導のもとに句会を開催していますが、年齢層も厚く北海道をはじめとし遠隔地からの出席、投句もあります。俳句に興味をお持ちの皆様のご参加をお待ちしています。
お問合せは、多田信子(34国文)まで。
電話 03-3200-6704

剣桜会(剣道部)

美しい剣道をしなさい。

それが一生懸命やると

いうことなんです。

(秋田一季さんの言葉)

秋田一季(あきた・かずすえ)
大正4年12月生まれ。昭和14年、学習院高等科卒業。同18年、東北帝国大学卒業。同28年2月、宮中御歌会諸役拝命。同62年より桜友会会長、学校法人学習院理事を歴任。平成9年3月30日死去

 

漕艇部の歩み

学習院の部活動で最古の歴史をもつ「漕艇部」。その歴史は、明治24年11月の東京府尋常中学校(都立日比谷高校)学友会の第1回競漕会に参加したことから始まった。
発足当初の名称は「端艇郡」。明治25年には、部で初めてとなる端艇3隻(いぶき、のわき、はやち)を新造した。当時端艇を持っていた学校は、東京帝国大学や高等商業学校などの2、3校。大変貴重なものであったことは想像に難くない。
同年10月、皇太子殿下(大正天皇)の臨席を仰ぎ、墨田川で進水式が行われた。この時、殿下から賜った御下賜金で「優勝旗」を製作。明治27年の「輔仁会端艇競漕会」からこの優勝旗争奪戦が繰り広げられ、以後毎年競漕会が開かれるようになった。
明治33年に名称を「水上部」に変更。明治41年の「全国中学校選手競漕大会」参加をきっかけに、対外的な活動も始まった。大正13年「第1回全日本スカール選手権」を獲得。以後、昭和3年からおよそ10年に渡り選手権を獲得し「スカール王国学習院」の名をほしいままにした。
昭和18年には、現後援会会長の中野新一郎氏が、海の記念日海洋競技大会スカール競漕で、全日本選手権保持者を破り、戦時下最後の錦を母校に飾ることになる。
昭和24年、大学開設と同時に大学水上部が発足。戦前に続いてスカールでたびたび全日本選手権を獲得し、伝統を保持した。空襲で端艇が焼失したため、しばらく借艇での練習だったが、26年にOBと学校の援助でフォアを建造。28年には後援会も発足し「漕艇部」と改称した39年、埼玉の戸田ボートコースに艇庫が完成し、今年7月まで、30余年に渡り部員たちの活動の場となった。
昭和30年代以降は戸田レガッタ、全日本大学選手権などでスカール、フォア、エイトでの優勝や上位進出、そして62年の全日本軽量級選手権では対抗エイトで準優勝と活躍している。近年では女子部員の活躍も目立つようになっている。
海外交流も積極的で、平成10年10月、高等科漕艇部はイギリスの名門パブリックスクール「イートンカレッジ」のボート部と親善試合を行った。イートンクルーの強さを見せつけられた試合だったが、試合後は大いに懇親を深めた。
明治以来の歴史と伝統をもつ「漕艇部」。新艇庫完成をきっかけに、更なる飛躍を期待したい。

硬式野球部 栄光の歴史に映えて

学習院野球部は今年(2001年)で創部百十二周年を迎えます。
米国人教師によって野球が日本に紹介された明治の初期から、学習院では「ベースボール同好会」が結成され、他校との試合が行われていたようです。
正式に学習院野球部として記録に残っているのは、一八八九年(明治二十二年)輔仁会が創立され輔仁会維誌が創刊されてからであるため、その時を野球部創部の年としております。
その頃は慶応、一高、農学校(後の東大農学部)、高等商業(一橋大学)、青山学院、明治学院等と試合を行ったという記録が残されています。
このように、正に日本の野球の黎明期に創部された伝統ある学習院野球部は、その長い歴史の中で日本のアマチュア野球界に多くの名選手を輩出し、また幾多の輝かしい実績を残してまいりました。その中でもとりわけ燦然と輝く二つの偉大な戦跡があります。
1.インターハイ優勝  明治の初めに我が国に紹介されたベースボールが、野球として国民に親しまれるようになり、その後大正時代に入って学生野球を中心に全国的に盛んになりました。特に大正十三年甲子園球場が完成してからは「中等野球」が人気を博しました。
昭和に入ってからは東京六大学の最盛期でありましたが、学習院高等科からも多くの先輩が東京六大学でご活躍されました。
当時は、この「中等野球」と「大学野球」のほかに、「高等専門学校野球」がありました。これは高等学校(旧制)と高等専門学校が一緒に戦うもので、大正十三年に第一回の「全国高等専門学校野球大会」が開催されております。
東京、京都、東北、九州の四帝国大学が主催、大阪朝日新聞社が後援で各帝国大学所在地で予選を行い、地区代表四チームで優勝戦を行うというものでした。
その後紆余曲折があり、昭和十年、高等学校と専門学校が分かれたため、高等学校野球連盟が設立され、インターハイが誕生しました。
学習院高等科は昭和十年の第一回大会より参加しておりましたが、戦後初の大会となつた第九回大会(昭和二十一年)で見事優勝致しました。
当時の様子について、チームの主将であった吉井滋先輩(昭和二十二年高等科卒)が「旧制高枚野球部史」に寄稿された追想文を 「学習院野球部百年史」から引用させていただきます。
「”終戦”旬日を経て復員、真っ先にかけつけた目白台のグラウンドは芋畑と化していた。しかし盛夏の日差しは敗戦も知らぬ気に燦として輝き、周辺の森の樹々はあくまで緑一色 木の間越しに射し込む陽光は、三島由紀夫いうところの影に愁ひあり、光に悲しみありそのもので、大げさにいえば国破れて山河ありの感があつた。
昭和二十一年、この歳のインターハイは敗戦の痛手より未だ立ち直れなかったこともあって、例年の如く夏ではなく秋に行われることになり、また輸送状況きびしく、全国各地より一ヵ所集結の全国大会開催は無理となり、関東、関西、東北、九州の四地区予選勝ち抜きチームが京都三高球場で京都帝大主管の下に決勝大会を行った。
ここで当時の学習院のメンバーを列記すると、
部長 西崎一郎先生
監督 瀬川昌治
三年 吉井(主将)、芝、渡辺兄、伊達
二年 富永、小出、大月、渡辺弟
一年 松平、和波、真田、亀井、岡部、鹿島、武村、佐久間
マネージャー 松方、益田、国司
東京における予選は松本、成城、都立、成蹊を連破して関東地区優勝、決勝大会は、関西浪高、東北二高、九州福岡高でこの四者により準決勝を行い、浪高を破った学習院と福岡高を破った二高が優勝戦に駒を進めることになった。
優勝戦の学習院のメンバーは次の通り。
(捕) 吉井
(二) 渡辺兄
(左) 芝
(右) 岡部
(遊) 小出
(一) 佐久間
(投) 富永
(三) 渡辺弟
(中) 武村
試合結果は当時高専部門の鳥取高専の山根投手(毎日オリオンズ、元大洋コーチ)と並び称せられた富永投手の予想外の不調で、三回までにつけられた絶望と思われる七点差を後半見事ひっくり返して、結局十四対九で全国制覇を成し遂げた次第である。
往時を顧みれば正に漠として夢の如しであるが、優勝の一瞬、富永投手とかけよって抱き合ったこと、逆転の満塁三塁打を打ったこと等未だ脳裏にはっきりと刻み込まれている。」
戦後第一回のインターハイで見事優勝された先輩方の姿が浮かび上がってくるようですが、正に「健児の意気を君見ずや 我が校の名は学習院」と高らかに歌い上げ、母校の名を世に知らしめた快挙でありました。
2.東都大学リーグ一部優勝
インターハイ優勝後、学制改革により昭和二十四年旧制高等科に替り新制大学が設置されました。野球部は昭和二十五年に東都大学リーグに加盟し、秋のシーズンから二部リーグに参加することとなりました。
加盟後四シーズン目の二十七年春待望の一部昇格を果たしました。その後は強豪校ひしめく一部で善戦しておりましたが、三十三年春に最下位となり芝浦工大との入替戦となりました。 一勝一敗一分のあとの第四戦、九回佐藤太美雄選手のダメ押しホームランで辛うじて二部転落を免れました。
そしてその昭和三十三年秋。苦しい一点差の試合をモノにしながら、勝ち点三をあげ最後は、学習院・日大・中央の三校が同率首位となり、東都大学野球史上初の三校による優勝決定戦を行うことになりました。
最初の試合で日大を破った中央が学習院に勝てば優勝という試合で、八回の表まで二対0と中央にリードを許していた学習院が八回の裏同点に追いつき、そして九回裏にサヨナラ勝ちと正に奇跡的な試合を制し、その結果三校が一勝一敗となり二回目の優勝決定戦を行うことになりました。
第一回優勝決定戦
中 央 十対四 日 大
日 大 二対一 学習院
学習院 三対二 中 央
二度目の優勝決定戦は神宮球場で行われました。
第一戦で日大に勝った学習院は中央に勝てば優勝という大一番を迎えました。その時の学習院の応援席には皇太子殿下(今上陛下)、義宮殿下(常陸宮殿下)清宮さまをはじめ六千人を越える大応援団で埋まりました。結果は一点差で惜敗し、三度三すくみとなりました。
第二回優勝決定戦
学習院 二対一 日 大
日 大 六対一 中 央
中 央 三対二 学習院
夕闇迫る神宮の会議室で関係者が集まり、十一月も半ばを過ぎたしここで優勝は預かりにしようという声も出たが、前年度連盟の理事長をつとめた学習院の柳谷武夫野球部長をはじめ学習院関係者の強い希望もあり、最後の優勝決定戦が行われることになりました。
三すくみの三度目、最後の決定戦は学習院・日大戦から始まりました。
先攻の学習院は二回江野沢がレフト線に二塁打、穴沢の中前タイムリーで二点を先取。五回には二死から田辺が右中間に二塁打、小川の内野安打で一、三塁となり、北田の右中間タイムリー二塁打で二点を加え、四対0とした。 学習院の先発井元は速球と鋭いカーブで五回まで日大を二安打と押えていたが、六・九回に点を取られ一点差と詰め寄られたが、力投。最後は逃げ切りました。
再びあと一勝で優勝というチャンスをつかんだ学習院は今シーズン五度目の中央戦に望みました。
学習院の初優勝を見んものと駒沢球場に駆けつけた応援席は五千人を越える観衆で埋まりました。
五回先頭のキャプテン田辺が中堅に三塁打を放ち、小幡の犠飛で先ず一点、続く北田、佐藤が連打を浴びせたあと、江野沢がライトスタンドにホームランを打ち、止めをさしました。
エース根立は中央打線を押え遂に念願の一部優勝を果たすことができました。
第三回優勝決定戦
学習院 四対三 日大
学習院 五対二 中央
なお東都リーグ担当記者による投票の結果、個人賞は次の通りとなりました。
最高殊勲選手 田辺隆二
最優秀投手  井元俊秀
敢闘賞    根立光夫、穴沢健
またベストナインにも学習院から下記の三選手が選ばれました。
ベストナイン 遊撃手 田辺隆二
外野手 北田次平、佐藤太美雄
その夜目自の町は提灯行列でごった返し、AP電は全世界に学習院の優勝を報道したそうです。
正に豊富な練習量に裏打ちされた勝利への執念、気力、またそれを支えるOB・学校関係者の熱意、それらが一体となって、キラ星の如くプロ候補選手を揃えた強豪校を打ち破ったことは、正に快挙であり、野球関係者のみならず、多くの人々の共感と評価を得ることとなりました。
現在現役野球部は東都大学三部リーグで戦っておりますが、先輩方が築き上げられた伝統の重みをかみしめて、「東都に学習院あり」とその存在感を再度世間に知らしめるべく、更に練習に励み「学習院野球」の復活を目指して欲しいと思っております。

東都大学リーグ1部優勝決定直後のベンチ入りメンバー

硬式野球部の優勝を可能にした「無欲の栄冠」。そのスポーツマンシップは今後も多くの人に語り継がれ、希望を与え続けるだろう。

読売巨人軍浅沼監督の薫陶を受けたOB会名誉会長の鈴木重臣氏(昭12高)

大学野球部の草刈廣監督(昭31政)。中等科との試合ではピッチャーとして大活躍!