従野明宏先生”感謝の集い”
平成14年6月8日(土)霞会館に於いて前中・高等科長の従野明宏先生ご夫妻をお囲みしてバスケットボール部OB・OG会 の「高等科部会」主催のもと”感謝の集い”を開催。永年にわたり先生にご指導を賜りました教え子一同、海外を含め全国からOB・112名、OG・32名と 多数の参加者とともに楽しい一時を過ごして先生ご夫妻への感謝の気持ちを表しました。
従野明宏先生”感謝の集い”
平成14年6月8日(土)霞会館に於いて前中・高等科長の従野明宏先生ご夫妻をお囲みしてバスケットボール部OB・OG会 の「高等科部会」主催のもと”感謝の集い”を開催。永年にわたり先生にご指導を賜りました教え子一同、海外を含め全国からOB・112名、OG・32名と 多数の参加者とともに楽しい一時を過ごして先生ご夫妻への感謝の気持ちを表しました。
まもなく創立50周年を迎えるワンゲルOB・OG会員は、400人を越えています。新潟県湯之谷村の銀山湖近くに建てた蛇子沢小舎も、あと2年で40周年とな ります。
部室で流した涙、小舎を愛した思いがひとつになる2年後の50周年記念イベント立案中。
70歳になった一期生をはじめ、老若男女が気軽に参加できる数々の催事(春草摘み・キノコ採り・俳句紀行など)を企画し、ウォーキングを楽しんでいま す。 更新日 05/05/2009 21:18:20
高等科優勝祝賀会
昨 年、春季都大会並びに秋季都大会(10人制の部)に見事優勝した高等科ラグビー部の栄誉をたたえその喜びを分かち合うために祝賀会を開催した。
春季大会は、5月14日成城学園との決勝戦を48対12で制し栄冠を勝ち取った。
6月17日行われた優勝祝賀会には、従野高等科長先生並びに賀陽桜友会長のご臨席を賜り、父母・高等科教員・OBとともに部員達の勝利を祝った。
秋季大会は、11月12日に日大二高を相手に決勝を戦い、29対7のスコアで優勝を勝ち取った。 更新日 05/05/2009 21:18:13
創部の歴史「バドミントン部の歴史」
日本でのバドミントンの始まりは1920年~30年のことであったが、その後、第二次世界大戦のために普及活動が停滞し、 本格的にバドミントンが普及し始めたのは1946年以降であった。
そのような中、学習院大学においてもバドミントンを愛するものが集い、 1952年、同好会としての活動を開始した。創部翌年の1953年からは四大戦、 さらに1956年からは甲南戦など、現在も続いている定期戦に参加し、 1980年からは関東学生バドミントン連盟の加盟大学として、 春秋リーグ戦・関東選手権大会・同新人選手権大へ出場するようになった。
又、1981年には同好会始まって以来の桜友会名簿の作成を行うなど、 地道な活動を続けた結果、1983年には念願であった「輔仁会運動部」への昇格を果たし、 新たなスタートを切ることとなった。
現在、バドミントン部は男子5部、女子4部リーグに在籍しているが、 過去には男子3部、女子2部リーグでプレーしていた時もあった。
そのような先輩方に少しでも追いつけるよう、そしていつかはその記録を 追い抜くことができるよう、日々努力している。
齋藤滋雄部長の退官を祝う会
平成17年2月26日、学習院大学ソフトボール部の部長兼監督として40数年にわたってご指導いただいた齋藤滋雄教授の定年退職を記念する会が目白で催された。男・女ソフトボール部OB会を中心に現役部員をまじえた記念の会で、午前中は大学北グラウンドでの現役対OB戦、午後は百周年記念会館小講堂での200名を集めた「退官を祝う会」と、終日をかけた盛大なものとなった。
学習院大学のソフトボール部は、まさに齋藤先生とともに歩んできた部である。順天堂大学を卒業した先生が学習院大学の助手として奉職したのが昭和32 年。同36年に任意団体のソフトボールクラブを創設、部長兼監督に就任する。翌37年には日本ソフトボール協会、東京都ソフトボール協会に登録、愛好会に昇格。同42年の同好会昇格を経て、同49年に正式に体育会運動部となる。同55年からは女子ソフトボールクラブの部長兼監督も兼任し、同58年には女子も体育会運動部となった。
この間、助教授となった昭和42年10月には、埼玉で行われた第22回国体秋季大会に出場し優勝を果たしている。この年は名選手が多く、7月の全日本大学ソフトボール選手権、8月の全日本男子ソフトボール選手権でも準優勝を勝ち取った。
昭和52年には教授となるが、ソフトボールへの情熱は今日に至るまで衰え知らずで、ソフトボール界での役職も、平成17年2月現在、東京都ソフトボール協会常任参与、東京都大学ソフトボール連盟会長、関東大学ソフトボール連盟会長、東日本大学ソフトボール連盟会長、全日本大学ソフトボール連盟副会長、といった具合だ。
多くの学生に慕われ、学習院大学での職責を全うした熱血指導の名物教授、齋藤先生に、今、感謝の気持ちを伝えたい。平成17年1月18日には最終講義も行われた。
オーストリア陸軍少佐との氷上の出会い。
その偶然が日本の、そして学習院の スキーの歴史の偉大な一歩となった!
学習院の学生がスキーを始めたのは、はるか明治44年(1911)12月まで遡る。当時来日中だったオーストリア陸軍のテ オドール・フォン・レルヒ少佐が長野県の塩尻峠から諏訪へと下った折に、諏訪湖で学習院の学生たちに出会った。彼らはその時は「スキー」ではなく「スケー ト」を楽しんでいた。レルヒ少佐は、その輪の中に入り、彼らとしばしスケートを楽しんだという。この偶然ともいうべきレルヒ少佐との出会いで、翌年1月5 日に二荒芳徳、三島弥彦(日本人で初めてオリンピックに出場した陸上の選手)、相馬正胤、三井高公、戸田安定、有馬行郎の各氏が、レルヒ少佐から直接ス キーの手ほどきを受けることになった。これが学習院のスキーの始まりであり、日本に初めてスキーがもたらされた瞬間であった。
大正6年(1917)には、新潟県の関温泉でスキーの一般合宿(初心者指導のための合宿)が開始され、2年後には、山岳部とスキー部から成る「学習院輔 仁会旅行部」が誕生した。旅行部が創設されてからは、新設の山岳部とスキー部を統括し、夏は登山、冬はスキーが行われるようになった。山岳部では、25日 間に及ぶ「カムチャッカ旅行」をはじめ、15日間の「シベリア旅行」などを、一方、スキー部では、「関温泉スキー合宿」が行われ、47名もの学生が参加し た。その後も活動は順調に続けられ、大正13年(1924)に旅行部から「山岳部」へと改称。この後、スキーは山岳部の活動の一つとして行われるようにな る。
この合宿には、歴代の院長もたびたび訪れている。大正14年の合宿に は、第14代の福原鐐二郎院長がかんじきを履いて訪問。土産に「カステラ」持参し、スキーを試乗したという記録が残っている。
その後も山岳部によってこのスキー合宿は続けられたが、日本が太平洋戦争に突入したことに伴い、活動の中断を余儀なくされた。終戦後の数年は食糧事情の 悪化で合宿ができなかったが、昭和24年冬、有志により再び「関スキー合宿」が復活する。翌年12月には山岳部の主催で再びスキー合宿を再開。学習院のス キーに対する情熱を強く感じる。
昭和32年になると、山岳部の中から、活動をスキーにしぼった「スキー部」の設立を目指す部員が現れた。部内外から部員を募り、10名程度が集まった。 そして翌年、「スキーくらぶ」が誕生。これが学習院大学スキー部の始まりである。
当初は男性部員が多かったが、女性部員も次第に増加。昭和34年に「スキークラブ」とすべてカタカナの名称に変更し、40年まで続いた。そして41年に は同好会に昇格して「スキー同好会」と名称変更。部員数もかなり多くなり、スキー部の黄金時代を迎えた。わずか4年後の45年にはついに部に昇格、「ス キー部」となり、現在に至っている。
スキー部は現在、「ノルディック班」「アルペン班」「一般班」の3班体制で活動。一方、OB・OGは「雪桜会」の会員として、後輩たちの支援にあたって いる。
今ではウィンタースポーツとして当たり前の存在になっているスキー。その歴史は、学習院スキー史と学習院スキー部史に重なるといっても過言ではないの だ。
嘉納治五郎師範の辞令。明治19年に学習院の教授兼教頭になった時のもの
学習院の柔道の歴史は、講道館の創設と同時期に始まった。講道館柔道の創設者・嘉納治五郎師範が政治学・理財学の講師として、明治15 年(1882)1月に学習院に奉職。翌16年4月、院内に柔道場が完成し、学校が柔道を日本で初めて正科(正規の学科)として採用した。中等科以上の希望者を対象に、師範自ら指導を行ったのである。
当時、華族会館の附属施設であった学習院は、その生徒の大半が華族の子弟であったため、危険が伴う柔道に対しては、父兄の否定的な意見が多かった。しかし、嘉納師範の柔道に寄せる情熱を初代の立花院長や谷第2代院長が理解し、いわば反対を押し切る形で柔道が行われた。
柔道部の創部については、正確な記録が残っていない。だが、明治31年の「輔仁会雑誌」に、初めて「柔道部」の名称が使用され、記述されていることから、この頃が創部と考えられる。
学校では、武道の一つとして明治21年に「柔道修業生徒規則」が定められ、放課後に同好の学生によって稽古が行われていたが、同41年になると、中等科 3・4年の一部の学生に毎週1回、武課正科として課されるようになった。大正11年に柔道、剣道、弓術、馬術は正科外武課として、それぞれ「部」と称することが認められるようになった。
最初の対外試合は、明治24年の第一高等中学校柔道大会への出場だ。以後、講道館や北辰館などの選手と試合をしてきたが、学習院では他校より早く柔道が行われていたため、大半の選手が勝利する圧倒的な強さを誇っていた。いずれにしろ、当時は武道の正科として柔道大会が学校行事で開催され、院内学生同士の試合のほか、他校学生との対外試合が行われており、今日の部活動の趣とは異なっていたのである。
昭和18年、輔仁会所属の「部」となったが、昭和20年の終戦とともに、武道授業の禁止と正科外の学校における部活動の禁止が通達されたため、62年の歴史を持つ柔道部は廃部になった。柔道部にも戦死されたOBがいたことを記しておきたい。
昭和25年、GHQの許可が出て、学校の柔道が復活。昭和27年に新制高等科が「柔道同好会」、大学が「体育研究会柔道部」を結成し、目白警察の道場を借りて稽古を開始した。この後、学校側から放課後のみ使用するとの条件付きで教室(旧道場)の使用許可が下り、OBから畳30畳の援助もあって、院内で稽古ができるようになった。
さらに、昭和29年に高等科、翌30年に大学がそれぞれ「部」に昇格し、新制中等科にも昭和40年に「柔道同好会」が発足、同42年に「部」に昇格した。
さて、OB会「柔桜会」の発足は、昭和28年のこと。翌29年には第1回総会を霞会館で開催し、今では会員約400名を有する大所帯になった。毎年6月に定例総会を行っているほか、忘年会や寒稽古、オール学習院の集いで現役との交流試合など、活発な活動を行っている。
平成15年、学習院柔道は120年、柔桜会は50周年という記念の年を迎える。創始者の嘉納師範が残した「努むれば必ず達す」の教えは、今でも多くの OB、現役の心に深く刻まれているのである。
昭和9年頃の学習院中・高等科柔道部。2列目の右から7番目に写っているのは島津久厚院長(当時中等科4年)
昭和35年1月15日に旧道場で行われた寒稽古。左上の書は嘉納治五郎師範直筆のもの
柳家小さん師匠の心意気を受け継ぐ酒落の効いた研究会
昭和32年春、歌舞伎を中心に活動していた国劇部からの暖簾分けにより、気品と優雅を歌舞伎と共有する落語研究会が誕生しました。亭号は目白亭と恋勢家。
発足当初は先々代・雷門助六師匠に師事していましたが昭和36年に、目白にお住まいというご縁もあり、人間国宝・故柳家小さん師匠を顧問としてお招きいたしました。当時は小さん師匠自ら、乃木館または師匠宅の道場で学生に稽古をつけておられました。また、ご存命中は私どもが主催する落語会への特別出演をお願いしてまいりました。落語について直接の指南役は以後、柳家小三治師匠、柳家つば女師匠、柳家小はん師匠へと受け継がれ、現在は柳家小団治師匠に、落語、太鼓など諸事にわたりご指導を仰いでいます。
落研主催の落語会は「めじろ寄席」と銘打って学内においては大学祭を中心に、その他輔仁会館などにて日頃の稽古の成果を披露しています。学外では、春夏休暇期間中、「巡業」と称し、合宿を兼ねて全国の老人ホーム、公民館などを慰問しています。6月と11月には近年は主として池袋・豊島区民センターにてホール落語の形式で「めじろ寄席」を開催しています。顧問の柳家小団治師匠、そして当研究会OBである柳家喜多八師匠(平成4年真打昇進。柳家小三治門下)が小さん師匠に代わり、特別出演を務めております。
元来、男性優位のクラブでしたが女子部員が独学で「寄席文字」を習得し、更に小団治師匠のお取り計らいにより、「下座(三味線)」については植田久子師匠、金近弘子師匠にご指導を賜ることとなり、高座でお囃子を披露する「お囃子教室」は落語と並ぶ落研の看板となっています。落語にも挑戦し女子部員は活動のフィールドを広げました。演芸、音響、印刷物と全て自前で運営できる体制となり、落研専用のホールを目白に建設すれば劇団四季と肩を並べるところまでこぎつけています。
創立45周年を迎えた落語研究会OB会は会員数約200名。40周年記念行事として会報「暫」の発行。本年5月には45周年記念興行としてOBのみで番組を構成する「OBめじろ寄席」を豊島区民センターで開催しました。また、オール学習院の集いにおける懇親会、ゴルフコンペなどで親睦を図っています。おおよそ規約マニュアルの類が性に合わない、ほどほどの曖昧さを信条とする連中ですが、会員を募り、口も出すが金も出すOB会として学生をバックアップしています。素人ですが芸名については襲名の制度があり伝統を承継する為の潤滑剤となっています。長谷川一夫、三船敏郎の時代、おしゃべりな男は敬遠されがちでしたが、今や駄酒落の一つも言えないと合コンの参加資格も得られない世相です。しかしながら内輪受けに走らず真摯に落語に取り組む姿勢は、小さん師匠の「心よこしま成る者は高座に上がるべからず」の心得に一歩でも近づこうとする表われです。
平成10年11月の落語研究会創立40周年記念パーティーでの集合写真。
この日は柳家小さん師匠も出席した。
史蹟研究会は昭和39年度、鉄道研究会から分かれて発足した。当時の鉄道研究会の活動は史蹟や観光地を回ることも多かったという。そこでそのような史蹟巡りに興味を持った何名かが集まり、法学部の熊坂武雄氏(昭41法)を委員長として史蹟愛好会が作られた。当時から、史学部が別にあったが、少し難し過ぎるのと、もう一つ別の理由で史蹟愛好会を作ったという。
そのもう一つの理由を、史蹟愛好会の設立者の1人である辻阪昭浩氏(昭41法)に聞くと、当時の鉄道研究会は男性ばかりで女性がまったくいなかったという。そこで何人かのメンバーが、女性とも話をしてみたい、ということで、もう少し観光的な史蹟愛好会を作ることになったという。辻阪氏によれば、「真面目20%、不純80%のスタート」ということになる。ところが、その当初の目的が当たり、後に4組の夫婦が誕生した。
発足時のメンバーは12~13名で、男性は法学部と経済学部、女性は文学部が多かった。
鉄道研究会から分かれたとはいっても、まだ、兼部しているメンバーも多く、場合によっては鉄道研究会と合同で活動をすることもあった。
また、現在まで続く土曜史蹟や夏合宿、春合宿、学祭での発表などは、この発足時からのものである。
このような歴史をたどり、一昨年、平成12年に史蹟研究会は「史蹟研究会設立35周年記念総会」を開催した。この時は多くの方々が集まり、400名強のOB・OGのうち、100名以上が参加したというから驚異的な出席率だ。
史蹟研究会のOB・OG会は「あすかまほろば会」という名称で、6月に年1回、総会と、OB・OG・現役の交歓会が開かれる。この時にOB・OGから現役に様々なものが寄付されるそうで、今活動で使っているパソコンもそのようにして寄付されたものである。この総会・交歓会は、5年に一度、大規模な会を開き例年以上のOB・OGが一堂に会する。その一つが前述の35周年記念総会だ。
ここで現役の活動にも目を向けてみたい。ほとんど設立当初の活動を引き継いでいる。まずは土曜史蹟と呼ばれる、毎月第2土曜の都内の史蹟巡りがあり、4月は浅草、6月は鎌倉が恒例となっている。この土曜史蹟には都合をつけて参加するOBの方もいるという。そして夏と春に、それぞれ合宿が行われ、夏合宿の調査の成果を11月の大学祭で発表する。今年の夏合宿は山陽で、大学祭の発表も姫路城や毛利元就などを中心とした山陽に焦点をあてたものだった。
現在のメンバーは11月の大学祭で引退した3年生を含めて20名弱。全盛期には総勢50~60人いたというから、残念ながらずいぶんとメンバーは減っている。そこで現在の史蹟研究会について3年生で前委員長の平達矢氏に話を聞くと、「歴史の好きな人には旅の楽しみも知ってもらいたい。旅の好きな人には歴史にも興味を持ってもらいたい。今は歴史好きと旅好きがお互いにいい意味で刺激し合っています」と、心強い言葉が戻ってきた。
アットホームな雰囲気のわりには真面目、真面目なわりにはアットホームな雰囲気の漂うサークルが史蹟研究会である。
平成12年、史蹟研究会設立35周年の時の一枚
土曜史蹟恒例の「鎌倉ツアー」。鎌倉最古の寺「杉本寺」の前で
平成5年の部室の様子。ここが史蹟研究会の活動拠点。
映画鑑賞から映画制作へ! 若者たちの夢と熱意を写し込んだ16mmのミクロな世界
現在では当たり前のように見ているテレビ放送。国内で始まったのは、昭和28年のことである。それまでの娯楽の主流は「映画」。学習院の学生にとっても例外ではなかった。
学習院大学映画研究部の始まりは、昭和22年6月。「国劇研究会」と同時に「映画文化研究会」の名称で誕生した。映画好きな学生が集まって、映画研究をはじめたのである。
創設当時は同好会であったが、部員が増え、昭和23年4月に「映画研究部」に昇格した。最盛期には大学と短大合わせて130人の部員が在籍。活動の中心は新作映画について互いに意見を論じ合う月2回の「合評会」だった。
当時、映画会社では新作映画の試写会が毎日のように行われ、半分以上は無料で入場できた。部員たちは映画会社を回って、試写会の入場券獲得に奔走したという。
また、余裕のあるときは有料の映画館に足を運んで鑑賞することもあった。学食のカレーが30円だった時代、映画館の入場料は30~150円。決して安くない有料の映画には、そう頻繁には行けなかった。
当時の映画のジャンルは、ドラマやバラエティ、ミュージカルをはじめニュース、文化・教育映画など実に多彩。どの部員も週平均7本鑑賞し、合評会に備えた。そして合評会では、評論家顔負けの迫力で熱弁をふるっていた。
そんな折、自分たちの映画を作りたいという欲求が生まれてきた。だが、お金もカメラも、フィルムもない。そこで、OBの協力を募ったり、赤坂プリンスホテルなどでダンスパーティを催したりして、制作資金を蓄えていった。
撮影に使用したのは16mmフィルム。映画は、ニュース制作会社にカメラを借りて撮影した。また、映像につける音声は後で録音する「アフレコ」であった。スタジオが空いている真夜中に缶詰になり、夜を徹しての録音作業。2日間くらい徹夜して作業を進めた。
日本大学芸術学部よりも映画制作が早かった学習院では、昭和25年頃から2年に1回ペースで映画制作が行われたが、昭和34年から年1本ペースで作られた。この頃になると、他大学との交流も活発化。他大学との合評会も行われた。
学習院は四大学映画連盟に加入していたが、慶應、法政、明治、立教、早稲田からなる「都下大学学生映画連盟」への加入は長年の夢であった。この連盟が10周年を迎えた昭和31年、晴れて仲間入りを果たした。学生映画祭も開催され、制作も盛んに行われるようになった。学習院初等科を1年間ロケして制作された「学習院初等科」、学生生活やマージャン風景などを綴った初めての劇映画「青春の谷間」、子供を主役にしたファンタジー「あこがれ」など、実にさまざまな作品が作られた。
さて、現在の映画研究部はというと、技術の進歩でデジタルカメラを使った撮影が主流になっている。俳優は、部員の友人や演劇部の学生に依頼。半年に1回、上映会を行っている。映画を鑑賞する集いが、評論へ、そして制作へと変化してきた映画研究部。今日も部員たちは、カメラを手に新たなる映画の可能性を求めて、どこかに出没しているに違いない。
映画研究部発行の映画評論誌「マアゼ」
昭和34年の映画研究部自主映画「木立の影」制作ドキュメント
学習院大学映画研究部が、制作活動の初期からこだわりつづけてきた16mmフィルムの映画。第1作目の「学習院大学文化祭」(昭和27年)から数えて6作目が、昭和34年に制作された「木立の影」だ。時間にして38分の長編劇映画は、足掛け2年をかけた大作であった。
この映画は、原爆症の恐怖によってのどかな生活を破られていく学生の姿を描いた作品。昭和33年7月に開かれたシナリオ選考会議では、部員から12篇のシナリオが出されたが、なんとすべて不採用。翌年の2月まで持ち越しとなり、篠原壮太郎氏(昭35経)のシナリオ「白と黒のたわむれ」が採用された。しかしそのシナリオも6回書き直しが行われ、「木立の影」のシナリオがようやく完成したのである。
役柄には外部の俳優も配し、3月4日にクランクインした。主なロケ地は四谷や世田谷で、連日9時30分~16時30分の7時間に及ぶ撮影が続けられた。約1ヵ月後にクランクアップ。撮影終了時には、予定のフィルム巻数をはるかに超えるほど、情熱を注ぎきった作品であった。
撮影が終わると、次に待っているのが作品をうまくつなぎ合わせる編集作業である。編集作業は部員の家を互いに行き来して行われた。費やした作業日数は延べ10日。そして、ようやく録音の作業に移った。
4月17~22日の6日間、アサヒスタジオで行われたこの作業は、連日徹夜。作業終了時には、全員がグロッキー気味であった。この力作は、第4回全日本学生映画祭に出品されている。