「ボールルームダンスクラブ」が誕生したのは平成7年6月。学習院大学「社交舞踏研究会」の協力を得て、初舞踏会を開催したのがその始まりです。桜友会からは畑中茸雄常務理事(昭38化)、梶本孝雄元理事(昭32済)、右川清夫元評議員(昭34済)にご出席いただき、大変充実したスタートとなりました。また、これと並行して「合同練習舞踏会」を始め、現在「OB・OG月例練習会」として、プロ現役の競技選手などをコーチャーに招き、毎月第1日曜(原則)に開催しています。
発足当初より協調関係にある社交舞踏研究会は、部として競技ダンスは行っていませんでした(当時の日本学生競技ダンス連盟に不参加)。しかし、近藤誉仁(平9済)・及川珠里(平9心)という実力あるペアが出現し、アマチュアの世界でめきめき力をつけました。平成8年「全日本ラテンダンス選手権」アマの部で総合4位に入賞し、翌年にはアマ・ラテンA級、モダンB級。卒業後はプロに転向し、現在JBDFプロ・モダンB級、ラテンC級として大活躍。当クラブのコーチャーもお願いしています。
クラブの方向に大きな影響を与えたのは、「目賀田ダンスの会」代表幹事の目賀田匡夫氏(昭36物)との出会いでした。「桜友会報」で当クラブの活動を知った同会の高橋蔦子さん(昭33国)に目賀田氏をご紹介いただいたのです。
ボールルームダンスはイングリッシュスタイルのダンスですが、「目賀田ダンス」は、勝海舟の孫・目賀田綱美男爵がフランス留学中に習得したフレンチスタイルのダンスです。目賀田男爵は、当時流行していたアルゼンチン・タンゴも習得し、帰国後、日本でご教授になりました。日本に初めてアルゼンチン・タンゴを紹介したのは、ほかならぬ目賀田男爵なのです。
その後、社交舞踏研究会の近藤・及川組の卒業時期が近づいたため、二人のお祝いも兼ね、舞踏会を計画。平成9年2月、赤坂のカナダ大使館ビルに併設されているシティクラブ・オブ・東京の「メイプルルーム」で第1回「早春舞踏会」を開催しました。以降、早春舞踏会は毎年1月か2月に開催し、現在は南麻布の「マーゴホール」で行っています。
また、千葉県船橋学園東葉高等学校の古賀加奈子さん(昭37済)のご好意で、同校「エンデバーホール」をお借りし「東葉舞踏会」をスタート。毎月第3金曜の18~21時までで、1~11月までは「東葉月例舞踏会」として、アトラクションやデモンストレーションのある舞踏会を行っています。
平成13年12月の東葉舞踏会のプロデモでは、社交舞踏研究会出身の宮入寛子さん(平12政)が新しい感性あふれる可憐なダンスを披露。大学卒業後に進学した宮入さんは、ダンスへの思いが絶ち難くプロに転向し、現在JDCプロ・スタンダード(モダン)C級、ラテンD級に昇級しています。
文/相賀柏雄(昭33政)
「輔仁会」カテゴリーアーカイブ
正續会(坐禅部)の歩み
何かを求めた青年たちが集まり、
そしてその求めるものを見つける手段を見つけ出した。それが坐禅だった。
今もその真摯な意志が脈々と受け継がれる。
坐禅部の前身は昭和22年4月に発足した「仏教研究会」だ。発足時のメンバーは越部平八郎氏(昭23旧高)、和波英郎氏(昭24旧高)、佐藤蕃氏(昭24旧高)、野坂二郎氏(昭27政)の4名だった。
研究会発足以前から、勉強会のようなものはあったが、仏教研究会という名称を使ったのはこの時からだという。このことを越部氏は{正續十六号」の中で「私たちの時代はシーキング・エイジで、何かを求めているときですから、”私は仏教徒だ”とか”私はキリスト教徒だ”とかいうようなことは、はっきりしていなかったのです。だから何かを求めていたことは確かだけれども、自分がそこできちっと決まって、これしかない、唯一無二だと思ったことはないのです」と語っている。つまり、初めに仏教ありきではなく、初めにあったのはメンバーが求めている「何か」であった。その中で、メンバーの求めているものに最も近いものが仏教であった。
研究会としての活動は、知識習得を主とする勉強会・輪読会を開く部門と、実践的な坐禅を行う部門に分かれて活動をしていた。会員はどちらかに属するというわけではなく、両方の部門で併行して活動し、仏教研究を行っていた。仏教研究会は昭和23年4月に正式に「仏教研究部」として輔仁会文化部の一つとなった。
最初、坐禅は学内にその場所がなく、鎌倉の円覚寺や谷中の天龍院まで足を運んでいた。そして、発足から2年後の昭和24年、正門脇の元院長舎宅の裏手にあった6畳ほどの炭小屋を利用して坐禅道場が作られた。翌25年5月17日には、研究会発足以前から指導を受けていた円覚寺の朝比奈宗源老師を招き道場の開単式が行われた。この時、朝比奈老師から、現在までその名を残す「正續会」の名と、それを揮毫した額が渡された。同時に安倍能成院長により道場は「無着堂」と名付けられた。昭和29年になると仏教研究部は、朝比奈老師より授けられた「正續会」を正式名称とし、学内では「坐禅部」の名称を使用することになる。
このように順調に活動を続けていた坐禅部だが、同年11月21日に無着堂が火事により焼失してしまった。その年は結局そのまま年を越し、翌30年3月末になってようやく再建に着手することができた。新しく部長になった筧泰彦教授を中心に再建は順調に進み、1ヵ月後の4月29日には新「無着堂」の開単式が行われた。それを追うように部室である「悟覚堂」の建設も始められ、雨漏りの問題などがあったものの、同年5月16日に完成した。無着堂の再建では、筧教授の家族も総出で実作業から休息場の提供まで協力し、部員たちの大きな力となった。その無着堂も昨年、平成12年に開単50周年を迎え、4月29日に無着堂開単五十周年記念式が開かれた。残念ながらこの50周年を迎える直前の平成12年1月11日に、無着堂再建に尽力した筧泰彦元教授は91歳で亡くなっている。
現在の坐禅部は部員約20名。毎週火曜には無着堂で坐禅会を開いている。また学祭では歴代、お茶を日本に伝えた栄西禅師にちなみお茶を出している。その時には部員が育てた芋を使った芋ようかんをふるまうなど坐禅部ならではのサービスが提供されている。
昭和38年の無着堂の増築完成式。
前列左から3人目は安倍能成院長。4人目は朝比奈宗源老師
写真部OB会の歩み
創部当時、皆が真剣に磨いたという撮影技術。
部の伝統として残る物事への真撃な姿勢が、人の心をとらえてやまない作品を創り出す。
今でこそカラーは当たり前になった写真の世界。しかし昭和20年代は、モノクロ全盛の時代であった。
学習院大学写真部が誕生したのは昭和24年。旧制高等科にはすでに写真部があったため、大学発足と同時に大学1・2年生として入学した旧高等科生がその活動を続けることで、活動がはじまった。
発足当初の部員は、近藤不二(昭27哲)、水田義直、野口欣弥、田村保夫、尾上清(ともに昭27政)、高橋正明(昭28物)、中村純一(昭28化)の各氏であった。また、初代部長には吉田早苗先生を迎え、部室は本館(現在の西1号館)3階の準備室を使っていた。
最初の部室は廊下からドア1枚の小部屋で、水場もなく、現像作業にとても不便。そこで昭和27年、同じ西1号館の地下1階に部室を移した。水場と独立した暗室がある部室であったが、現像液を貯蔵するためのプラスチックの瓶もなかったため、当時はウイスキーやビールの瓶に現像液を蓄えていたという。
昭和25年になると、学習院女子短期大学が開校し、短大写真部が誕生した。同年の11月には、小田急線沿線の柿生にて短大生をモデルに大学・短大合同撮影会を行い、翌年には大学・短大写真部合同の新入生歓迎コンパも開いて、交流の輪を着実に広げていった。
以後写真部の活動の幅も広がり、昭和30年からは、甲南大学と「交歓展」を関東と関西で交互に開催。翌31年からはプロの写真家である牧田仁氏から指導を受け、撮影合宿もはじまった。
そして昭和32年、学習院写真部の黄金時代が始まることになる。「全日本学生写真コンクール」で共同制作作品が優秀校賞に選ばれたのだ。木曾馬の産地として知られる「木曾開田村」をテーマに合宿撮影した組写真「木曾馬の話」がそれで、最優秀学校賞を受賞。以後、「観光地・日光」「風土病-日本住血吸虫病」「変わりゆく漁村-岩手県下閉伊郡」「この大地の隅から-京葉工業地帯」といった作品が高い評価を得て、5年連続最優秀学校賞を受賞するという栄誉を勝ち取った。それらの貴重な作品は、昭和38年に出版された「共同制作 五ヵ年の歩み」で見ることができる。
写真部からはプロカメラマンも数多く輩出しているが、中でも小谷明氏(昭31政)や齋藤煕吉氏(昭34済)は有名である。また、映画・ビデオの分野でも海外で受賞をしたOB・OGの評価は高い。
OB会活動も活発だ。昭和52年に初代部長の吉田先生の定年退職を祝して開かれた「ぴんぼけ総会」は、その後毎年のように開催され、懇親の輪を広げている。ちなみに「ぴんぼけ」の名前は、民放ラジオで流れていたさくらフィルムのコマーシャルソングにちなんでいる。
近年では、毎年4月に開かれる「オール学習院の集い」で写真展を開催し、OB・OGの作品を展示しているほか、日光の光徳小屋での撮影会も行われている。
創部から半世紀。ファインダーを通して、その時代時代の真の姿をとらえる部の伝統は、いまも立派に受け継がれている。温かな雰囲気の中で、OBと現役との親交も今後ますます育まれていくことだろう。
昭和26年7月の写真部新入生歓迎コンパ(西1号館屋上で撮影)
国劇部桜友会の歩み
江戸時代、出雲大社の巫女阿国が京都で演じた「念仏踊」が発祥といわれる歌舞伎。日本の伝統芸能の集大成である歌舞伎の同好グループを学習院にも作ってみよう。歌舞伎好きな数人の学生のそうした思いが実り、昭和22年6月、「学習院国劇研究会」は生まれた。
敗戦後ということもあり、西洋文化の優遇色が濃く、日本古来の文化に対しては、封建的で悪いという風潮が世の中に広がっていた。そのため、結成当初は「若いのに変なやつらだ」という目で見られることも多かったという。
結成当時の学内では、歌舞伎を上演することなどはまったく考えられなかった。そこで、歌舞伎の研究を主眼に置いて活動がはじめられた。
メンバーの獲得も大切なことであった。研究会としたからには、芝居の話ができる人を集めねばならない。そのため、すでに入会していたメンバーが創会の告知をガリ版刷りで作り、各教室に張り出した。当初はあまり集まらないと考えられていたのだが、10数人が集まり、そのなかには、作家の吉村昭氏(昭24高・大学中退)なども含まれていた。
メンバーも決まり、学校側に「部」への昇格申請を行ったが却下。すでに演劇部が創部されていたため、同じような部があるのはおかしいという学校側の考えであった。
そうした中、活動は続けられ、翌23年6月に四谷の初等科で記念すべき第1回公演が行われた。演目は「番町皿屋敷」。資金のあてがなかったため、なるべくお金が掛からない演目をと選ばれた。本番では芝居が一時ストップしたりもしたが、なんとか初めての公演は終了。以後、毎年のように「忠臣蔵」や「三人吉三」などの公演を重ねていった。そうした活動が学校側にも認められ、晴れて「国劇部」へと昇格した。
また、青山学院大や東大など他校との合同歌舞伎も実現。国劇部は学習院の名物として現在もその歴史を刻み続けている。
国劇部には、現在も歌舞伎界で活躍しているOBやOGが数多い。創設者の小山觀翁氏をはじめ、坂東彦三郎夫人の坂東生子氏(昭48国)、市川団十郎夫人の堀越希実子氏(昭51仏)、新歌舞伎座の松本清氏(昭54独)、歌舞伎俳優の市川新次氏(昭55哲)、新橋演舞場支配人の武中雅人氏(昭55史)、松竹の岩下雅夫氏(平4法)、原祐道氏(平9日)など、錚々たる人物が名を連ねる。
国劇部が50周年を迎えた平成9年9月、国立小劇場で「創立50周年記念公演」が行われた。演目は「助六」「伊勢音頭」「一条大蔵譚」「弁慶上使」の4演日。OBと現役部員による公演は、立見が出るほどの大盛会であった。
また近年は、生涯学習の発展にも積極的だ。平成10年度から学習院生涯学習センターの公開講座開設にも協力し、「江戸文化・古典芸能」をテーマに全10講座を受け持った。観世会部や落語研究会と共同で行ったこれらの講座は、好評を博した。
創設当初に掲げられた「日本文化の伝承」という使命。それは、いまもOBや現役学生の心の中に息づいている。日本文化への関心が高まりつつあるいま、国劇部の存在意義は今後もますます高まっていくことだろう。
桜辯会(弁論部)
弁論部は当初、「演説部」と称し、明治22年(1889)の輔仁会発足と同時に創設された最も古い部の一つである。発足後しばらくして、一時的にその活動が低調になり、名称も明治36年(1903)に「邦語部」と改称されたが、同39年1月に第一高等学校ム弁論部主催の第一回聯合演説大会に代表を出すなど、再びその勢いを盛り返している。この当時の邦語部の委員には志賀直哉、武者小路実篤、石渡荘太郎らが名を連ねている。
大正時代に入っても、その豊富な人材は犬養健、大久保利謙と衰えることはなかった。しかし、学生自身の弁論に対する活動が停滞し始めたため、これを刺激するためにも学者や文学者を招いて講演会を行うことになった。この講演会は恒例となり、大正10年(1921)には12回の小講演会が催された。講演者をみてみると、哲学者の天野貞祐、詩人の西条八十、政治学者の吉野作造など錚々たるメンバーが揃っている。少し時間は戻るが、大正3年11月25日にはこの講演会の一環として夏目漱石が「私の個人主義」と題する講演を行っている。この漱石の講演は、自分の留学経験などをもとにした、当時としては画期的な文化論で西洋と日本の国民性の違いを浮き彫りにした。このほかにも和辻哲郎、芥川龍之介らも講師に招かれ、活発な部活動が行われている。
大正12年には名称が「講演部」となり、1月5日には東京帝国大学主催の全国高等学校弁論大会に代表が出場した。その翌年に再び名称が変わり、現在まで続く「弁論部」となった。
しかしこの弁論部は、昭和2年を境として外部の弁論大会には出場していない。これは思想問題などとの関係で、学校側が外部への弁士派遣を禁止したためである。部内での活動は今まで通りであったが、やはり外部との接触が制限されることで刺激が少なくなったのであろう、活動は次第に停滞していった。
昭和19年には弁論部を含む文化部は戦時非常措置により活動停止となった。この措置は昭和20年の敗戦まで続いた。そして昭和20年11月9日の輔仁会理事会で戦時非常措置の廃止と文化部の復活が決定される。この戦後の混乱の中で、弁論部の実質的な活動は昭和23年に入ってからになる。同年の10月、朝日討論会に出場し、いきなり準決勝まで進む健闘をみせた。
この後、弁論部のOB会、桜辯会の現会長の福岡照夫氏が昭和26年に入部し、本格的な戦後の活動が始まった。同27年の7月に安倍能成院長が、まだ戦後の翳りを抱えていた学習院全体を盛り上げる活動の一環として、第1回院長杯争奪弁論大会を開催した。この当日は全学を休講にして開催するほど、院長もこの弁論大会に力を入れていた。
この昭和27年から31年にかけて、29年の全日本雄弁連盟加入などを契機として弁論部は戦後最初の全盛期を迎え、各新聞社や大学の主催する討論会や弁論大会に出場することになる。この時期に入部した中から、前福岡ドーム副会長の田中鐵男氏(昭31政)、元農林水産大臣の島村宜伸氏(昭31政)らを輩出した。昭和30年春には総理大臣杯争奪全関東大学討論大会で田中鐵男氏、工木甫夫氏(昭31政)、高場清海氏(昭32政)、野々山茂氏(昭32経)で優勝した。また第11代全関東学生雄弁連盟委員長に田中鐵男氏が就任し、同時に全日本の議長も兼任し学習院大学は学生雄弁界のリーダーとなった。一見、男子中心の部にみられがちな弁論部も、平成に入ってから急速に女子学生が増えてきた。その中から平成4年に弁論部初の女性幹事長が登場した。このように、弁論部は時代に逆らわず、時代に流されず、独立自尊の道を今も歩み続けている。
軽音楽部の歩み
大学では、毎年5月下旬頃「目白音楽祭」が行われる。音楽部や世界民謡研究会など、学内の音系サークルが日替わりで演奏を繰り広げる祭典だ。創立33年の「軽音楽部」は、いまや常連の団体である。
部の起こりは昭和43年。当時、学内には個人的なバンドがいくつかあった。その中で、鈴木時男氏(昭46済)と鈴木民生氏(昭47済)のフォークのバンド「The etc」と稲田拓夫氏(昭47政)のカントリー&ウェスタンのバンド「Blueglass Cut Ups」が集い、「軽音楽愛好会」を創設した。
創設時のメンバーは11名。部室もなく、輔仁会館や西1号館などで練習を行っていた。愛好会としての初めての演奏会は、昭和43年の院祭で開かれたピラ校でのライブである。
「The etc」は、カレッジバンドとして東芝からレコードをリリースしたほどの腕前。44年8月には、長野県飯田市で「レコード発表会」を開催した。部で主催した初の対外コンサートでもあり、前出の2バンドのほか、木村純氏(昭49法)と杉野有喜雄氏(昭49法) のバンド「Blue Tigers」、ゲストとして跡見学園女子大のハワイアンバンドが演奏した。昼夜2回の公演は大成功を収めたのである。この頃、部にはセミプロのようなプレイヤーが多数在籍し、ダンスホールなどで演奏のバイトも行っていた。
それまで、合宿は各バンドごとに行われていたが、木村氏が同好会長を務めた47年には、初めて全体合宿を茨城県高萩市で実施した。参加したバンド11組は、フォーク、ボサノバ、ロックなどジャンルはさまざま。しかし、どのバンドもハイレベルな演奏を繰り広げていたので、会員たちはジャンルを超えて互いの演奏を尊重し、切磋琢磨したという。
ハードロックが全盛を迎えた49年、「軽音楽同好会」に昇格、初代顧問には田中靖政先生が就任した(田中先生には感謝です。とOB談)。大学公認の団体として、輔仁会館2階の練習場と助成金が与えられるようになった。その助成金を使い、新宿の安田生命ホールでリサイタルを開催。日本ビクターから歌手としてすでにデビューしていた現桜友会常務理事の松尾薫氏(昭53政)参加のバンドも加わり、演奏会は毎回盛況を極めた。
音楽を愛するプレイヤーたちのスピリットは代々受け継がれ、いまでは「軽音楽部」として活動をしている。現役部員は、現在約50名。輔仁会館に部専用のスタジオがあり、恵まれた環境の中で音楽活動できるようになった。毎年4月には、ピラ校で「新歓ライブ」が開かれるほか、8月には1年生主体の定期演奏会、また11月の大学祭では生演奏が自慢の「ライブ喫茶」も開店し、多くの人に音楽の感動と興奮を与えている。
OB総数約350名を数えるまでになった軽音楽部。創設者の鈴木氏は「よくここまで続いてくれました」と本当にうれしそうに語ってくれた。

昭和45年11月に日仏会館にて開かれた「学習院大学軽音楽フェスティバル」

六本木のノチェーロで開かれた懇親会には多数の方々が参加
音楽部の歩み
大正十一年夏。学習院輔仁会音楽部は産声を上げた。以前から学習院には個人的にクラシック音楽を演奏する人が多く、日本のオーケストラの父といわれる近衛秀麿氏をはじめ、京極高鋭や有坂愛彦(ともに音楽評論家)、山田一雄、前田幸市郎、岩城宏之、福田一雄各氏等の一流音楽家を輩出してきた。 音楽部は輔仁会雑誌編集部から分かれて独立。だが大正末期は硬派が盛んな時代であったため、音楽を奏でる部など軟弱だと独立には反対する意見も多かった。やっとのことで独立するが、大正天皇の崩御により活動を一時中断。昭和二年に活動を再開すると軍艦マーチの作曲者、瀬戸口藤吉氏は当時日本楽壇の第一人者で、交響曲などを演奏できるまでに音楽部を成長させた。 昭和六年ごろ、音楽部は戦前の黄金時代を迎える。瀬戸口氏に代わって、新交響楽団(現NHK交響楽団)の弦・管楽器奏者、棚池慶助氏を指導者として迎えたからである。特訓を積み重ね、新交響楽団と練習をしたりして、音楽部の名は広く知られるまでになった。 戦時中も演奏が絶えることはなかった。激しい空襲で楽譜を失ったが、貴重な楽器は部員や門衛の人達によって救われた。そのため、音楽部は戦後にいち早く復活する。 昭和二十四年、大学ができると大学の音楽部に混声、男声、女声の合唱団を編成。また、女子短大が設置されると短大(現女子大)女声合唱団ができ、コーラスが隆盛を極めた。一方、初等科には合唱部とオーケストラが誕生し、中・高等科にも有志によりオーケストラが結成されるに及んで、各団とも精力的な活動を始めたわけである。 学習院が創立百一年を迎えた昭和五十三年。音楽部はテレビ朝日の「オーケストラがやってきた」の番組出演した。音を愛するプレイヤーたちは、今後も聴衆に感動や興奮を送り続けることだろう。
桜美会(美術部)の歩み
学習院大学名誉教授で元美術部長・林友春先生の言葉を借用させていただきます。
「学習院は戦後一般に開放されましたが、ややもすればその教育目的が明確を欠くようになったと思われます。しかし学習院にとっては、旧学習院のその日本的伝統文化の香りと、明治以降の新しい文化創造への率先開発という学習院本来の精神を再認識し、世界文化の発展に貢献するのが、最も相応しい教育目的であると考えられます。中でも、かつて日本に西洋美術・音楽・文芸を招来し、日本文化発展の先駆をなした白樺派の人達の功績を継承する学習院輔仁会の美術部は、音楽部と共に、全学の文化活動の中心となって、一人学習院のみならず、日本の文化発展に努力してきたことは、忘れてはならないことと思います。この美術部は、浩宮皇太子殿下が学習院幼稚園に入園され、絵を発表されたのを契機に、以来しばしばオール学習院美術展を開催してきました」
林先生のお言葉のようにわが美術部は、日本的伝統文化の香りを基調に、明治以降の新しい文化創造への一翼を担ってきたという自負があります。今年制作した「学習院美術部卒業生名簿」から諸先輩の御名を挙げてみますと、錚々たる人物がアトリエにて絵を描いていたのが分かります。大正15年高等科卒の故入江相政氏、昭和2年高等科卒の故徳川義寛氏、故鍋島直康氏などの方々の御名が見えます。そして昭和20年代過ぎに、現在の様相になって参りました。
今回発刊された美術部卒業生の名簿には、1100名の名が載っています。指導者は、戦中から戦後にかけて、故富永惣一先生(元国立西洋美術館長)、洋画の故岡常次、日本画の今田直策の両先生、さらに昭和20年代からは故石川滋彦先生(新制作協会)、故是永伸一先生、故新木正之介先生、林友春先生などの方々がおいでになり、故石川先生は毎週土曜日に絵の批評会でご指導され、会が終了すると先生の奏でるアコーディオンに合わせ、屋上でホウキダンスなどをしました。
夏の合宿は、志賀高原の丸池ロッジや石の湯山荘等々で開催し、1週間の合宿中に描いた力作の批評会と合宿最後の晩の納会での寸劇がよき思い出です。帰りの夜行列車の中で、眠らずに将来の思いを語り明かしたことが走馬燈のように思い出されます。当時の大学美術部の展覧会は、秋の大学祭とオール学習院展が主要でした。特に都内の有名デパートで開催されたオール学習院展は幼稚園から大学、短大、教職員と関係者一同の発表会になりました。外部団体・企業の方々達と交渉したり、OBの著名な先生方(武者小路実篤氏ほか多数の方々)の絵を借用したり、会場も採算の合わない点も特別なお取計らいでご協力をいただき、無料でいろいろとご配慮いただきましたことに感謝しながら、社会勉強をさせていただきました。どんな展覧会でも出品される作品だけでなく、裏方の絵の飾り付けや配置などにも各人の人間性が表れ、興味深いものです。
今後も現役学生と桜美会とが協力し、学習院の文化活動の発展に役立ちたいと思っております。
文/渡辺伊佐保(昭43済)
昭和41年に行われた輔仁会美術部の夏合宿
観光事業研究部の歩み
昭和28年、第二次世界大戦の苦しみから、漸く立ち直り、平和な時代の到来が告げられようとしていた。そして学習院大学でも、その平和の象徴ともいえる旅と観光に目を向けた学生たちがいた。
昭和28年、学習院高等科の卒業を目前にした、鉄道と旅を愛好する学生たちが、大学での「同好会」結成のために準備を始めた。そして同年4月、大学進学と同時に学習院観光事業研究会(GTB)を設立する。設立時は女子部からの進学者や、外部からの入学者と合わせて20名弱の会員であった。
その後、会員が急増し、資金も会費だけでは賄いきれなくなり、運営費を捻出するための企画を立てることになる。当時はダンスパーティーが流行し、多くの部やサークルは、そのパーティーで運営資金を集めていた。観光事業研究会も様々な案を考えたが、当たり前ではつまらないと日帰りバスツアーを企画し、学内だけではなく外部(主に目白周辺の学生)にも呼びかけた。これは、バスを一台借りきって行うもので、初めは危険という理由で許可が下りなかったという。それでも、何度も学校との交渉を重ね、承認を得て、伊豆方面への第一回の観光事業研究会主催の日帰りバスツアーが開催された。このツアーは好評を博し、以来、毎年春秋の2度のバスツアーは恒例となっていった。後に同じく観光事業を研究する、早稲田大学観光学会、慶応大学観光事業研究会、立教大学ホテル研究会などもこのバスツアーを参考に、同様の企画を実施していった。
また、創設後初めての文化祭(院祭)では、観光相談所の設置や当時の最新型観光バスの展示・試乗会などを行った。
昭和29年院祭で、右端が山田明夫初代委員長
このほかにも、修学旅行の添乗業務の実習を、当時は合併によりできたばかりの近畿日本ツーリストの協力で行ったりした。
昭和31年当時、観光に関する講義がカリキュラムに加えられていたのは立教大学だけで、そのほかは研究会が、先に挙げた早稲田大学、慶応大学と日本女子大学、大妻女子大学にあるだけだった。これらの大学ではどこも運営費の問題で頭を痛めていた。そこでバスツアーや様々な企画の情報交換などを頻繁にするようになり、次第に連盟結成の動きとなっていった。そして昭和31年夏、皇居前のパレスホテルで結成式を行い「全日本学生観光連盟」がこの6校により結成された。これとほぼ時を同じくして、観光事業研究会は部に昇格し、観光事業研究部となった。
会創設後、47年を経た現在、現役の部員たちは先輩たちの築き上げた基礎を大切に守りながら、さらに時代の変化に適応しながら活動している。今、活動のメインとなっているのが大学祭での研究発表と、毎年恒例の冬のスキーツアーである。
学祭での研究発表は発足当時から続いている。まさに観光事業研究部の柱である。毎年夏休みに各調査地で調査合宿を行い、大学祭でその成果を発表する。そして、その成果を調査報告書の形でまとめている。内容はデータ・分析ともに非常に充実しており、極めて優れたものになっている。
冬のスキーツアーも昨年は蔵王、一昨年は苗場と、学外の方も交えて大盛況のうちに開催された。ほかに、山手線一周や沼津での合宿など、1年を通して多くのイベントがある。研究と遊びを両立させながら成果を残していく、観光事業研究部はまさに部活動の本道を歩み続けている。
水桜会(水泳部)の歩み
水桜会は学習院水泳部の卒業生で構成され、会員の親睦と、現役水泳部の活動支援を目的にしています。学習院大学、高等科・中等科、学習院女子大学、女子部高等科・中等科の全水泳部を対象としています。
学習院水泳部は、昭和10年に結成されました。1年がかりで学生たちの勤労奉仕をもとに目白にプールが完成したときです。全国に数ある水泳部のなかで先輩たちの手作りの苦労によるプールを持つ学校はほとんど例がありません。
誕生した水泳部は、学習院伝統の古式泳法「水府流」から近代泳法へ転換し昭和16年には東京高師付属中学(現つくば大付属高校)との間で第1回定期戦を開始し、また旧制高校のインターハイに参加して好成績を上げ本格的活動を開始しました。
第2次大戦で中断したあと、昭和24年には、高等科がインカレ3部の水球で優勝し、25年に新設された大学水泳部は、関東学生の競泳と水球の両分野で26年3部優勝、27年2部優勝と連戦連勝で1部に昇格する大活躍をとげました。
こうした水泳部の活躍を支えるため、昭和23年にOBが結集して「クラブ・ラナ」が結成され、一般学生を対象に水泳講習会などを開催して好評をえました。これを母体に正式なOB組織として発足したのが水桜会で、今日まで男女各水泳部の発展を支えてきました。
水桜会は、平成7年春、会員175名から1,350万円の募金を集め、目白プールの温水化装置を新設し、学習院に寄付しました。時代の進歩につれて各大学プールは室内温水プールが主流となり、水球はじめ競泳の試合もシーズンが早まり、早春の冷水での練習がハンデとなってきたためです。募金はその2年前に亡くなった藤崎 健氏(昭30大卒)のご遺族からいただいた100万円を基にして会員諸氏によびかけ、昭和14年旧制高等科卒の小出英忠先輩はじめ大學、高校、中学、女子部の卒業生から広く寄せられました。この募金活動は水桜会の基盤を固めるために大きな役割を果たしました。
(文責 昭和24年旧高卒 小島宣夫)
大学水泳部の発足 -たった二人の水泳部-
大学水泳部発足時の詳細については、昭和60年に水桜会が発行した我が半世紀-創部50周年記念文集に詳しく記載されているので、ここではその一部を引用しながら概要を御紹介したい。
大学水泳部が発足したのは1950年(昭和25年)、学習院大学が創設された翌年である。高等科水泳部には同級生が7名いたが、学習院大学へ進学し水泳を続けたのは僅か2名、私と渡辺正直君だけであった。二人とも中等科、高等科を通じて水泳部に所属していたので、大学にも水泳部を設けなければならないという使命感のようなものがあり、早い話が、二人共そのために学習院大学に進学したようなものだった。
入学早々水泳部は創ったものの、部員二人では如何ともし難い。新設の大学だから、関東学生は当然一番下の3部から始めることになる。水球リーグ戦に参加できない我々にとっては、東伏見の早大プールで行われた関東学生の競泳だけが唯一の行事となったが、ここでも少数部員の悲哀を味あわされた。初日100米自由形予選で私は予選をトップで通過したが、リレー種目に出場しない大学は参加資格無しとの大会役員の裁定で、二人ともその後のレースを泳ぐことはできなかった。結局初年度の大学水泳部の記録は、何も残っていない。この後二人で部員獲得に奔走し、1年上の楠瀬、小杉両先輩、同期の松島が入部、部員は5人となった。
こんな状況にもかかわらず、我々が部の将来の発展に希望と確信を持ち頑張ることができたのは、翌年および翌々年に高校から入ってくる後輩達に対する大きな期待があったからのように思う。前年の昭和24年、高校水泳部はインターハイで東京都代表として初の全国大会への切符を手に入れ、甲子園に出場した。この時我々と一緒に戦った仲間が入学してくれば、大学でも相当の成績が挙げられるはずだ。三部から駆け上がって3年後に一部で戦うという夢は、すでにこのたった二人の部員の時から我々の頭の中に出来上がっていた。
事実、翌51年には高等科からの藤崎、佐野、久松らに加え田原が入部し、水球は三部で全勝優勝、競泳も優勝し二部昇格した。この年の水泳連盟機関紙(水泳92号)には、『三部優勝の学習院は断然たる強みを見せ東工大との一戦を除いてはいずれも10点以上の得点差を示し、今すぐ二部で戦っても上位を狙える実力を有してる。春の合同練習に最も熱心な態度を堅持した学校の一つであったことを想起すれば、当然の帰結と云って差し支えない。』と記されている。さらに52年には後藤、鏑木、高橋、花山、松石らの新鋭を加え、水球、競泳とも二部優勝一部昇格と、夢は現実のものとなった。
最後の年、一部では立教大学一勝したのみで五位に甘んじたが、全日本では学生二位の早稲田と延長二回の大接戦を演じ、1-0で破れはしたがこの年の水球界の話題となった。3年前たった二人で辛酸を舐めた大学水泳部も、4年間を通じてまずまずの滑り出しだったと云って好かろう。
翌年卒業試験を終え、4月1日までの自由な時間を何に使って、渡辺と二人で戦争の影響などで混乱していたOB名簿の整備にとりかかった。一部に昇格し新聞に名前が出るようになってから、知らない先輩が試合を見にきてくれたこともあり、OBの有難さを感じていたことも影響していたように思う。何とか名簿が出来上がってから、プールサイドに数人が集まりOB会の名称を考えた。私の記憶に誤りがなければ、「水桜会」の名は1954年3月ここで生れている。
(文責 昭27年大卒 加藤正躬)
大学女子水泳部設立と松沢洋子さん
1956年4月4日から7日間、神田YWCAプールで、日本水泳連盟主催の下に「シンクロナイズド スイミング講習会」を開催することになった。はたして何名集まるか見当持つかなかった。物珍しさからかマスコミの取り上げられるようになったとは言え、120名程の応募者があったのには驚いた。「初期の選手はこの講習生の中から育った」これは当時、文部省の文官であり、私どもの指導者であった串田正夫先生の「シンクロの歴史」からの抜粋である。
女子水泳部の設立とこのシンクロとは切っても切れない関係がある。講習会の初日120名集まったメンバーも最終日には10名足らずになった。その中の6名が日本初のシンクロ競技会に出場し、そのうちの3名が松沢洋子、立石佳子、(現姓:立石)、佐々木裕子(共に昭34大卒)の学習院生であった。
練習するプールを求め、当然のことのように学習院のプールを使おうとした。しかし私達は「水泳部」でもなく「男子」でもなかった。当時プールは男子水泳部のものであった。1936年のベルリン オリンピックの団長で、日本水泳連盟のシンクロ普及部長を当時されていた松沢洋子さんの父君松沢一鶴氏の見えざるお力のお陰もあり、私達は女子水泳部員となれた。
その頃、松沢さんはいつも走っていた。その後ろに、立石、佐々木も言われるままに彼女に従って走った。松沢さんはチーム,ヂュエットの二種目で優勝した。何時も先を見て走り続けた松沢洋子は1961年帰らぬ人となった。
今、シンクロの会で私達は「化石」と呼ばれている。縄文時代のシンクロを経験した者として、今はすべてが懐かしい。
(文責 昭34年大卒 佐々木裕子)
中等科水泳部の誕生
水桜会の歴史にも触れられているとおり、昭和23年夏に目白のプールにおいてクラブ・ラナ主催の水泳講習会が行われました。敗戦後の娯楽も極めて少ない時代であったので大勢の少年、少女が参加し、水泳の爽快さ、面白さを満喫させられました。
昭和24年中等科が小金井から戸山の女子部構内に移転したことで目白のプールもグーンと身近になり、講習会で水泳熱の虜になった少年たちが「中等科水泳部」を作ろうと言う機運が一気に盛り上がり、その年の夏に結成されたと記憶します。部長は当然、猿木恭経先生(エテキ、日本泳法「小堀流師範」)が労をとってくださり、部員には3年生が岡村さん(名不詳)、2年に植田泰治、黒木正芳、林忠治、川原敏資、上田宏、江口公忠そして私渡辺勝彦、1年に小野寺龍二、前田兼利、佐藤肇等々の諸君が参加したと思います。
シーズン中は午後3時過ぎ授業が終わると皆で一団となって戸山から目白まで歩いて行き、学習院の馬場わきの坂道を登ってプールに通いました。コーチは確か戸沢孝寿先輩(昭25年高卒)が行ってくださり、厳しい練習の中にも有益な楽しいお話があり、みんな生き生きと目白に通ったものでした。翌25年9月、筑波大附属中学との第一回対抗戦が行われましたが、附属には天野、小林、本郷、平野君等強豪ぞろいで惜敗したのを未だに憶えています。
(文責 昭33年大卒 渡辺勝彦)