輔仁会」カテゴリーアーカイブ

山桜会(山岳部)の歩み

昨年、創部80周年を迎えた輔仁会山岳部。
日本から世界の名峰に夢と憧れを寄せて、山への讃歌を自然という名のノートに刻み続ける。

はるか明治時代にまでさかのぼる学習院の山岳活動の歴史。当時ボン大学に留学していた近衛篤麿氏がスイス・アルプスを登山 したのがその始まりという。以後、21世紀を間近に迎えた今日まで、学習院出身者による山岳活動は活発に行われ、数々の偉業を築き上げてきている。
山岳部の創部は大正8年4月。創部当時の名称は「輔仁会旅行部」で、部内はさらに「旅行部」と「スキー部」に分かれていた。創部3カ月後には赤城・日 光・白馬岳・妙高山への山行などが行われていたので、発足当初から活動が活発であったことがうかがえる。
「山岳部」と改称されたのは大正14年。同年、学習院と慶應の合同登山隊が北米のアルバータ峰(3619m)初登頂を成し遂げている。日本山岳会初の海 外遠征でもあり、学習院からは岡部長量、波多野正信(ともに大12旧高)の両氏が参加。頂上に立った隊員9名は、日の丸を振ることも、万歳を叫ぶこともな く、無言のまま互いに握手を交わし、初登頂の喜びを分かち合ったという。
大正14~16年には、日本山岳協会や日本山岳会の会長を務めたことがある松方三郎氏(大8旧高)や元部長の渡辺八郎氏がヨーロッパアルプスを登山。大 正15年には、秩父宮殿下も一緒に登られている。
時代は移り変わり昭和10年。「森林・草原・氷河」という日本の山岳書の中でも有数の名著を残している加藤泰安氏(昭9旧高)や周布光兼氏(昭13旧 高)ほか4名が大興安嶺最高峰(1835m)の初登はんに成功した。
昭和28~33年には、日本山岳会や京都学士山岳会の海外遠征に参加。前OB会長の舟橋明賢氏(昭19旧高)をはじめとするグループがアンナプルナ2 峰、4峰の試登を果たしたほか、芳賀孝郎氏(昭33経)のグループがチョゴリザ(7654m)の初登頂も成し遂げている。
海外遠征は他の団体との合同がメインであった山岳部も昭和39年、ついに学習院単独の登山隊を結成。川崎巌氏(昭35経)らによりアラスカ・ローガン峰 の登山を行った。中央峰(6050m)の登頂と西山稜の初登はんに成功し、学習院山岳部の歴史に残る偉業を成し遂げた。
念願の学習院ヒマラヤ登山隊が結成されたのは昭和51年。三井源蔵氏(昭20旧高)、贄田統亜氏(昭38化)などのグループがスキャンカンリ峰 (7544m)初登頂を果たした。
なお近年では、永田秀樹氏(昭55独)らによるチョー・オユー峰(8202m)の登頂や、棚橋靖氏によるナンガパルバット(8125m) の単独登頂成 功が偉業として挙げられる。
山岳部創立80周年記念を迎えた平成11年10月、学生を中心とした初の海外合宿が行われた。目指したのは中国の未登峰レッドメイン峰(6112m)。 海外での登山経験が豊富なOBの棚橋氏を隊長に学生主体のパーティーが初登頂に成功したことは、今後の山岳部の黄金時代の幕開けを告げる出来事にちがいな い。
もちろん山岳部の活躍は海外だけに留まらず、国内でも数々の業績を残し、枚挙に暇がない。
日本の山岳クラブの最古に数えられる輔仁会山岳部。今後も世界の数々の名峰を踏破し、母校に錦を飾ってくれることであろう。

庭球部後援会の歩み

今から100年前、四谷のキャンパスでいち早くプレーされていた「庭球」。
学習院庭球部の歴史は、日本テニス界の華麗なる歴史でもある。

サッカー、ラグビーなど近代スポーツのほとんどはイギリスで発明され、発展してきた。それは「庭球」(テニス)についても 例外ではない。近代テニスを考案したのは、イギリス陸軍大佐のウィングフィールド氏。明治6年(1873)のことである。学習院では明治30年頃、四谷の 院内で一遊戯として行われていたが、部の活動記録は明治35年から始まっており、この年が庭球部創設の年になっている。そして今年、創部100周年を迎え た。
学習院初のテニス対抗試合は、明治35年の東京高等師範学校(現筑波大学)附属中学との試合である。初試合で見事勝利し、「東都12校招待連合大会」へ の出場が認められた。
しかし、明治41年に校舎が目白に移るとコートがなくなり、練習不足で戦力は弱体化。長い低迷状態に入ってしまう。
その状態から立ち直ったのは、大正5年(1916)。東京高等師範学校を破った健闘は、「学習院庭球部」の存在感を再認識させ、翌6年の強豪・早稲田を 倒した折には、「春の庭球界は学習院の奮起で幕を切って落とした」と新聞に報じられた。大正11年には関東女子選手権が始まり、女子学習院の柳谷澄子さん が第1回の優勝者に輝いている。
大正13年、第1回全日本女子選手権が開催。公式戦初出場で同じく女子学習院の黒井悌子さんが見事優勝し、全日本大会でも第1回優勝者を学習院から出し た。黒井さんは12~13年の全トーナメントのシングルでも優勝し、学習院の生んだ最高の女子プレーヤーになった。
しかし時代は戦争へと突入。物資統制、インターハイ中止、他校庭球部廃止などの動きの中、昭和20年まで庭球部は活動を停止した。活動の再開は昭和21 年。インターハイで優勝し、成蹊定期戦にも勝利と、さいさき良いスタートを切った。
学習院が新制大学としてスタートした昭和24年、庭球部も大学硬式庭球部として新発足。31年には女子高等科が全国高校対抗戦に東京代表として出場し、 初の全国制覇を成し遂げた。翌年も優勝し、女子高等科は黄金時代に。一方、男子高等科も東京代表として出場し、全国ベスト4に輝いている。
テニスは多くの皇族方も楽しまれているが、現天皇陛下(庭球部名誉会員)と皇后陛下(聖心女子大硬式庭球部主将)がご成婚された昭和34年頃、テニス ブームが到来した。
庭球部の活躍は続いた。リーグ戦女子1部準優勝(昭和59年)、関東学生女子シングルス優勝(平成3年)、関東学生新進選手権男子シングルス優勝(平成 6年)などである。そして今年8月には、全国中学校テニス選手権大会男子団体の部で中等科テニス部が優勝した。庭球部黄金時代の到来を予感させる出来事で ある。
100年の歴史と伝統の重み。学習院庭球部の歴史は、日本のテニスの歴史でもある。次なる100周年の第1歩は、いま始まったばかりである。

庭球部員の記念写真。三井高元氏記念アンツーカーコートにて(昭和17年)

庭球部創部百周年を記念して
学習院庭球部は明治35(1902)年、輔仁会庭球部として創設され、今年で百周年を迎えることができました。
平成14(2002)年10月19日には、天皇皇后両陛下をお迎えし赤坂プリンスホテルにおいて学習院庭球部創部百周年記念式典と祝賀会を開催いたしました。庭球部OB、OG、現役とともに学習院庭球部と関係の深い四大学、甲南大学、関東の伝統校、ならびに学習院関係者、日本庭球協会の皆様をお招きしましたところ、380人あまりの参加を得て盛大に執り行うことができました。
学習院庭球部の歴史を振り返ってみますと、大正、昭和の初期は「全日本ジュニア」および「全日本女子」において、全国優勝を成し遂げた多くの優秀な選手を輩出した時代でありました。
終戦後の昭和24年には、学習院が新制大学として発足と同時に「学習院大学硬式庭球部」がスタート。着実に力をつけるとともに部員も増大し、今日の基礎を築き上げました。個人戦においても関東学生、インカレ、全日本等の大会で上位にランクされる選手を多数生み出した時代でもあります。
昭和55年以降には全日本出場者も出現し、平成10年には学習院大学で初めてインカレダブルス優勝者が誕生したことは、記憶に新しいことであります。
最近のリーグ戦は、他大学のセレクション方式による選手強化策と、学生の体育会離れの傾向から、学習院大学は、男子は4部、女子は3部と低迷しております。
しかし今年、男子中等科が「第29回全国中学校テニス選手権大会」の男子団体の部で見事に優勝し、全国制覇を成し遂げました。この出来事は、学習院庭球部に輝かしい歴史を刻み、創部百周年にまたとない花を添えてくれました。
この実績を活かし、我が学習院庭球部の現役諸君がさらに上位を目指し、日常の部活動の中で切磋琢磨してほしいと思います。そして、一人一人が新たな百年の歴史と伝統を築き上げる礎となることを心がけ、自己研鑽を積まれることを祈念するものであります。

拳桜会の歩み

創立30周年記念式典

少林寺拳法部創立30周年記念式典及び祝賀会が、平成9年11月1日(土)東京・芝パークホテルで行われた。午後4時に始 まった式典には、島津久厚院長、小倉芳彦学長両先生をはじめ、桜友会会長代理・金子剛様、運動部常任委員会・花巻亘様、全日本学生少林寺拳法連盟副委員 長・小林美樹様と数多くのご来賓をお迎えし、創立当初からの30年の歩みを出席者それぞれが強く感じた。又、祝賀会では、現役OBを含む90名の出席者を 得て、終始なごやかに、また盛会のうちに幕を閉じた。今回をもって拳桜会(OB会)を一新し、新しい組織体制で現役とOBが手を取り合って、本学のさらな る発展に貢献できるよう努力していきたい。

竿友会の歩み

創部55周年記念パーティー
昭和 28年創部から半世紀有余、魚釣りと自然が大好きの友が年々集いて55年、500名を超える愛好会となりました。平成20年9月6日百周年記念会館に於い て記念パーティーを開催しました。
5年前も同会館で50周年が開かれましたが、今回は卒業年次が昭和年代のOBと現役を対象とし73名の会員が参集しました。
創始者である藤崎OB会名誉会長から創部のエピソードや「竿友会は、OBも規約上現役と同等の正会員なので、一体となってますます盛り上げて欲しい」と の挨拶がありました。保谷OB会会長からも「一致協同して更に60周年・65周年と継続したい」との挨拶がありました。
又OB会より現役の皆さんの活動を充実すべく” 学習院課外活動助成金 “を寄贈する旨の発表がありました。 北九州市、名古屋市、松本市等々遠来の方々のスピーチや部室から運んだアルバムを広げて懐かしい歓談の輪が広がりま した。
「竿友会ホームページを開設して、もっと交流を広げよう」等の意見が出たり有意義な、和やかな時が流れましたが、予定された2時間もあっという間に過 ぎ、次の再会を約しておひらきとなりました。

愛好会 竿友会 担当者連絡先
矢谷 昭佑 (S41・経済学部卒)

kanyukai_2008

陸上競技部の歩み

昭和7、8、9年のインターハイで、前人未到の3年連続優勝を成し遂げる。

日本の近代陸上競技の発祥は「運動会」からはじまったといわれる。学習院における陸上競技の発祥も、明治23年、当時の皇 太子殿下(後の大正天皇)が赤坂離宮で行った運動会であった。皇太子殿下ご自身も競技に参加されたという。
その後、明治29年になって輔仁会主催の運動会が四谷の運動場で開かれた。こうした運動会がきっかけで明治32年に「徒歩部」が誕生。陸上競技部の歴史 がスタートした。
当時、陸上競技の分野では一高がその強さを誇っていたが、明治34年の駒場農科大の招待レースで海江田幸吉氏(明36旧高)が四百米で優勝し、学習院の 活躍がはじまった。
同時期、意外な人物が学習院の陸上の歴史に登場する。白樺派文学の巨頭であり、日本文学界の一時代を形成した志賀直哉(明39旧高)である。「文章の神 様」と呼ばれた志賀は、意外や意外、スポーツ万能の青年で、棒高跳をはじめ、器械体操や野球などでも活躍していた。
大正時代になると、全国陸上大会が開催されるようになり、学習院の選手も出場。第1回と2回の大会で内藤政邁氏(大5旧高)が走高跳で日本新記録を樹立 して連続優勝。第3回には増田久雄氏(大7旧高)が棒高跳で、第6回と8回には伊達十郎氏(大10旧)が走高跳で優膠するなど輝かしい戦績を残した。
こうして大正5年、学習院徒歩部は「競走部」と名を変えた。その後も学習院の勢いは衰えることなく、大正11年のインターミドルでは、低障害で山田義重 氏(大11旧高)が優勝。宇佐川武雄、島津久大(以下大13中)、南部信雄、中村謙七(以上昭2旧高) の各氏も健闘し、全国制覇を達成した。
第1回目の全国インターハイが開催されたのが大正15年。俊足で知られた南部信雄氏が、棒高跳で記念すべきインターハイ初優勝。会場の神宮外苑競技場に は「大瀛の水」が響き渡り、桜章旗が大空に翻った。
そして昭和6年、競技部の第1次黄金時代が始まった。関東インターミドルで優勝を果たした学習院中等科チームが、全国インターミドルにおいて全国制覇を 成し遂げたのだ。
その中心となった小池正英、山田貞夫、実吉安彦、福岡孝行(以上昭10旧高) の各氏が高等科に進み、第7回から9回の全国インターハイで不滅の三連覇 を成し遂げてしまった。これは、永遠に語り継がれるべき学習院の栄光である。
三連覇の主力選手が卒業したあとも、競技部の活躍は続いた。第2次黄金時代といわれる昭和15年のインターハイの優勝だ。佐久間秀明氏(昭16旧高)を キャプテンに、森田和彦、菅原皓、山本忠良(以上昭16旧高)、山尾信一、稲田植輝、田敏夫(以上昭17旧高)の各氏が出場。総得点61点を獲得し、堂々 の優勝。史上最多4回の全国制覇の記録を樹立した。
戦後、大学と新制高等科が誕生してからも、学習院陸上競技部の活躍は続いている。創部101年目の昨年には中等科陸上部が全国大会に出場し、決勝で立派 な走りを見せた。「お坊ちゃん学校」というイメージに隠れた真の強さ。それは今もなお学習院のどこかに息づいているような気がする。学習院陸上競技部に黄 金時代が再び到来するのも、そう遠い未来ではないかもしれない。

桜帆会の歩み

ヨット部50周年!

学習院大学ヨット部は1954年に創立され、国内屈指の伝統校としてヨット界に広く認知されております。世界選手権、全日 本選手権、国体、全日本学生選手権等、多くのレースに出場し、時として華々しく、ある時は持てる力を充分に発揮できず、悔しい思いを後輩に託したりと色々 でありますが、学生時代の4年間を海や風に親しみ、自然の大きさ、美しさ、怖さを身をもって体感でき、真の友人を得る喜びは多くのOB、OGが人生の糧と しております。
現在の合宿所は、横浜八景島シーパラダイス内マリーナと三浦郡葉山町にあり、平成元年以降途絶えている「全日本学生選手権団体出場」という目標を掲げ、 家族的で楽しく和気藹々の雰囲気の中にも、日々懸命に練習に励んでおります。

ホッケー部の歩み

平成十一年秋の関東女子大学リーグ戦十月十七日対成城大学戦において、学習院大学女子ホッケーチームは4対0で圧勝し、一 部リーグ第三位を確保しました。しかも二位東京農業大学とは勝ちを惜しいところで逃して引き分けているので、実力的には二位に等しいと言えます。チームを 結成以来、たった四年目の快挙でした。関東大学リーグは四部まであるので、価値ある一部三位です。ホッケー界でも噂があちこちに広まりました。学習院強 し、と。
平成十一年十一月十三日ホッケー部は創立七十年を迎えて、記念式典を目白で行いました。島津院長、賀陽桜友会会長始め学習院、ホッケー関係者多数参会の もと行われましたが、女子ホッケーのこの強さは、永いOB活動の積み重ねが大きな要素になっていると思います。よく言われることは、ホッケー部はOBの活 動が盛んだから、「良い」と。
学習院と学生との絆、愛校心は学生生活を終了して社会人となっても何処までも、延々と続きます。ホッケー部卒業生は社会に出てからも、学習院を思い、目 白を思い、現役学生のリーグ戦の戦績を心配し日々を送っています。ホッケー部卒業生の団結は学生の部活動を強力に支えているのです。

昭和四年ホッケー部結成

学習院ホッケー部ほ今を遡ること七十二年前にこの目自の地に産声をあげました。活動を始めたのは昭和四年であり、正式に輔 仁会に認められたのは昭和六年になります。学習院高等科の軍事教練教官に戸山学校から榊原大尉が赴任され、続いて遠山少佐が見え、着任早々「武課」の時間 にホッケーの試合が取り入れられました。これは両先生とも戸山学校の有名なホッケー選手だったことに由来します。両先生はゴール、スティック、ボールを揃 えて武課の授業のみならず休み時間放課後にスティックを弄れるようにしてあったので、好きな連中がスティックを振り回し始めました。秋になると、チームが 編成出来るようになり、東京帝国大学ホッケー部長の井口常雄教授にコーチを願い、試合が出来そうな状態になってきました。

第一回インターハイ出場

昭和四年十二月、帝国大学ホッケー部の企画により、全国旧制高等学校にホッケー普及の目的で、第一回全国高等学校ホッケー 選手権大会が東京帝国大学御殿山グランドにおいて開催されました。参加校は六校で帝国大学連盟傘下の高等学校、すなわち学習院高等科、台北高等学校、第三 高等学校、成城高等学校、浦和高等学校、北大予科。
学習院最初の公式戦出場メンバーは次の通りです。
主将 北大路信忠  (五年卒)
富永 鉄夫
鈴木 甫   (五年卒)
蒲生 郷信  (五年卒)
山口 定男  (五年卒)
大村 清   (五年卒)
坪井 忠郎  (七年卒)
赤松 照彦  (五年卒)
高木 正順  (八年卒)
松平 精   (五年卒)
渋谷 在正  (九年卒)
野球部、ボート部、剣道部の応援メンバー混合チームでしたので、試合も第三高等学校に0対5で敗れました。その後プロパー部員が入部して、正式な学習院 ホッケー部が成立し、昭和六年に輔仁曾への入会が認められました。

第一期隆盛期到来

スティックを弄ぶ連中が集まって来ただけあって、成果はどんどん挙がって来ました。昭和六年第三回全日本高等学校ホッケー 選手権大会(以下インターハイ)優勝、昭和七年八年九年関東高等学校リーグ三年連続優勝、昭和八年九年インターハイに連続優勝と、創部五年にして数々の優 勝杯を獲得しました。当然名選手が続出し、この時の学習院ホッケーの技術が後々まで引き継がれ、今日の繁栄があると考えられます。その時代の主要メンバー は次の通りです。
周布公兼、副島種典、中村路一、佐藤譲、山田義元、渋谷在正、渋沢言忠、小笠原清信、有地次郎、六所五郎、北大路信勇、北大路信義、有地熊蔵、今城政 典。今なお有地次郎は健在で、学生のリーグ戦を応援のためグランドに顔を出します。
その後昭和十二年、十三年、十四年と関東リーグ二部(この当時は大学高校混合)で連続優勝し十五年には台湾へ初めて遠征試合を行いました。創部以来十数 年で学習院の中で、ホッケ一部強し、と言う評価を揺るぎないものとしたのです。

第二期隆盛期(昭和二十三年から)

ホッケー部に黄金期が訪れました。第二次世界大戦も終わり、まだ東京が焼け野原になっていた頃、昭和二十一年には犬養康 彦、松平忠久が入部し二十二年には窪田裕一、黒川眞幸、佐野和夫、松平尚次郎、大島護久、緒方幸三、上田宗良等が入部して、OB伊東渉、浅田俊二、町尻量 光の援助、指導の下、その素質を生かして着々と力を付けて行きました。
そして昭和二十三年には国民体育大会関東予選決勝で慶応高校に1対0で勝ち、出場権を得て、福岡での本大会では決勝まで進み、惜しくも札幌商業高校に0 対3で敗れ二位となったのです。ここで学習院の名は全国に轟くこととなりました。その後学習院高等科は国体に昭和二十七年まで関東代表としての出場が続き ました。
学習院が新たに学習院大学となった昭和二十五年、関東大学ホッケーリーグ二部として初参加しましたが、早速五戦全勝優勝し、一部に昇格しました。
試合結果 対東京歯科大学 不戦勝
対一橋大学   8対0
対東京大学   10対0
対成城大学   12対2
対武蔵大学   10対1
中心的選手であった黒川、上田、松平忠久、窪田、緒方、佐野の卓越した技術を基に見事なパスワークと安定したバックスは絶賛を浴びたものでした。この年 の第一回四大学定期戦は楽勝でした。
対武蔵大学   10対0
対成城大学   11対0

ついに関東大学リーグ一部二位に

そしてこの強さは二十六年には更に上昇して、関東リーグ一部の二位にのし上がりました。
対慶応大学   2対0勝ち
対明治大学   0対3負け
対法政大学   6対1勝ち
対立教大学   5対2勝ち
対早稲田大学  3対2勝ち
この時の最強メンバーは次の通り
FW 本田春義  二年
FW 松平尚次郎 二年
FW 松平忠久  四年
FW 窪田裕一  三年
FW 金 時習  一年
HB 円谷一   二年
HB 黒川眞幸  二年
HB 緒方幸三  二年
FB 佐野和夫  三年
FB 上田宗良  三年
GK 小坂昇一郎 三年
この年日本代表チームがインドに一ケ月半遠征しましたが、この代表選手の中に黒川眞幸が選ばれました。
その後もホッケー部は関東学生リーグで一部で揺るぎない地位を保って、昭和三十年の全日本ホッケー選手権大会には準決勝に進みベスト4になったのです。

三十年代は潜伏期

三十三年から二部へ転落してからの十年間は一部との往復となりました。甲南大学との定期戟が始まりましたが、第一回は5対 0と圧勝したものの、四十三年にはどん底の三部に転落してしまいました。

潜伏期脱却して海外遠征始まる

この後飛田孝監督(三十八年卒)を迎えて一挙に三部からあっという間に一部に昇格しました。明治大学に教えを乞い、強化合 宿、韓国遠征等々新機軸を打ち出して良くチームをまとめたのです。この時から現在まで続いている海外遠征は四年毎に実行されていますが、これは在学中に必 ず海外遠征がある、と言う事により、優秀な部員獲得の機会が増えるなど、現在のホッケー部充実の基礎が固まったと言えましょう。
四十八年韓国遠征のメンバー。
団 長 飯坂良明教授(ホッケー部長)
監 督 飛田 孝
コーチ 深谷弘士 関谷 隆 桜井直己
主 将 池田幸雄
選 手 奥田道彦 野口 亨 山田 実
釈 洋一 横溝昌宏 野崎博典
長井広司 福本雅夫 亀田尚裕
小林 進 竹口友章 石井庸一 薦野 潔

高円宮殿下インターハイにご出場

高等科ホッケー部に高円宮殿下がご入部になりました。運動神経も良くメキメキと上手におなりになり、四十六年の徳島でのイ ンターハイに学習院は出場権を得て、殿下もライトハーフとして活躍されました。二回戦で御坊商業高校に4対2で逆転勝利しました。しかし三回戦では日本一 と言われる星光学院高校と対戦することとなり、0対7と大差で敗退しましたが、その後インターハイの出場枠が少なくなり、あまり出場出来ないでいます。殿 下のご出場は貴重な実績です。 また大学チームも今日の平成に至るまで一部と二部を往復してはいますが、レベルから見ると、この二十年間上位を保っている と言えます。

女子チーム誕生と大活躍

冒頭にも書いたように、現在女子ホッケーの活躍が見事です。平成六年の春、帰国子女の新一年生谷村康子以下が女子チームを 作りたいと言う強い意志のもとチーム結成に務めました。そして紆余曲折はありましたが、正式に学習院輔仁曾ホッケー部女子チームが誕生しました。二年目か らメンバーが揃い、早速関東大学ホッケーリーグ戦に参加しましたが、女子大学はホッケーブームで関東だけでも二十校を越えており、四部からのスタートとな りました。監督に就任した高田良太(六十二年卒)の巧みな指導のもと、気力充実、練習熱心、研究心旺盛のため、三部昇格、二部昇格を一気に果たし、あっと いう間に一部昇格を果たしました。平成十一年には二位と引き分けながら三位となり、ホッケー界で一躍有名になりました。平成十一年開催の東西対抗戦には代 表選手に大原知子、須磨映理子、翌年には荒木郁子の三名が選ばれる等、ホッケー部第三期の隆盛期が続いています。これらの原動力となったメンバーは次の通 り。
谷村康子、日月(たちもり)玲子、山本彩恵子、神武友子、河野真弓等々です。女子部員も四十名に増え、現役部員は男女大学高等科を含めて八十名。創部以来 の大人数で、その昔部員難で苦労した事が嘘のようです。しかしこれにはOBである桜杖会の活動が基盤となつているのです。

(社)日本ホッケー協会会長に 学習院卒業の上田宗良

OBになってからもホッケー界と関わりを持って活躍している者が数多くいます。その最も頂点は上田宗良(二十八年卒)で す。第二隆盛期でフルバックで活躍し、卒業後は日本開発銀行の業務の傍ら、国際ホッケー連盟の仕事にも専心し、オリンピックには絶えずホッケー役員として 運営に関わり、現在は(社)日本ホッケー協会会長、国際ホッケー連盟常務理事、アジアホッケー連盟副会長、(財)日本オリンピック委員会副会長を経て特別 顧問、また青森で開催される二〇〇三年冬季アジア競技大会組織委員会の副会長に青森県副知事と共に就任し、ホッケーを通じて世界のスポーツ振興に貢献して います。
その他には内藤政武(三十五年卒)が日本ホッケー協会理事、釈洋一(五十一年卒)が関東ホッケー連盟理事、飛田孝(三十八年卒)が大阪ホッケー協会副会 長、深谷弘士(四十一年卒)が東京ホッケー協会理事、濱口孝文(五十八年卒)が日本学生ホッケー連盟理事として現在活躍しています。過去にも中村光良(三 十四年卒)が日本社会人ホッケー連盟専務理事として実業団関係のホッケー隆盛に貢献するなど、ホッケースポーツ振興のために役立っているOBが数多く存在 するのも、他の運動部と違うところであり、特徴であると思います。

目白ホッケー祭り

年に二回目白のグランドで行われるホッケー祭りは、男女の現役OBが一三〇名近く集まって六人制ホッケーを楽しみます。二 〇チーム以上が競う会場は大変盛り上がりを見せ、ひと昔前では考えられない盛況ぶりです。
これも第一隆盛期から育まれた学習院ホッケー魂が連綿と引き継がれて今日に至って開花したと言えましょう。これからも更なる前進を目指す学習院輔仁曾 ホッケー部でありたいと考えています。

★以上 出典は、学習院広報 第64号 (平成13(2001)年7月15日発行)より
「ホッケー部の歩み」・・・執筆 内藤政武 氏 (PDFファイル79KB)

桜弓会(弓道部)

戦争で、中断を余儀なくされた弓道部。
戦後、部員たちの不屈の精神で蘇った奇跡の部は、新道場完成とともに創立80周年を迎えた

学習院で弓道が始まったのは、大正7年4月。中等科1・2年の授業「弓術正科」として行われたのが最初だ。弓道をはじめ、 剣道や柔道など「武道」が授業として行われる学校は、当時多くなかった。
翌年11月には正式な弓道場が造られ、弓道部が創設された。環境が整ったこともあり、活動は活発化。大正13年1月からは、弓道の寒稽古も始まってい る。
記録をみると、対外試合は大正14年1月の第一高等学校との試合が最初だ。記念すべき初試合は、大差で優勝。以後、戦績には「大勝」「優勝」「勝利」の 文字が多く見受けられる。授業としても弓道を行っていた学習院の面目躍如である。特に昭和8~16年は弓道部の黄金時代といわれ、72戦69勝。OBの津 軽承靖氏が連日のように道場を訪れ、コーチとして後輩たちを叱咤激励したという。
しかし戦争の影響で活動は縮小し、昭和20年の大空襲で弓道場を焼失。終戦後に出された文部省の通達で、弓道を含む学校武道が一切禁止され、弓道部は解 散を余儀なくされた。
その弓道部が昭和32年に再建に向けて始動する。大学の学生数名によって設立が発案され、2年後、「弓道部同好会」として活動を開始したのである。同 年、神奈川県湯河原にて初合宿を実施。以後、毎年のように春夏2回、合宿が行われるようになった。
新生弓道部の大きな悩みは練習場がないことであった。部員たちは大塚の区営弓道場まで出かけ、日々腕を磨いていた。しかし、学習院専用の弓道場ではない ため、順番が来るまで練習ができない。そこで、校内練習場の設立願書を学校側に提出、昭和35年6月に建設の許可が下りた。
建設地は、血洗の池そばの藪。当時の部員で櫻弓会会長の北村氏は、「ひどい藪でした。学校側との約束で木を切らないことになっていましたので、部員総出 で下草を刈り、整地しました。でも、なかなか平らにならなくて、スノコを敷いて足場を安定させました。大変でしたが、思いの染み込んだ道場でした」と語 る。
部員が一致団結した甲斐あって、1カ月後の7月には射場が完成。学内で練習に励める環境が整った。
翌々年の37年には、東京都学生弓道連盟に加盟。対外試合が活発化し、女子の部では一部に昇格するほどの活躍もあった。現在の部員は60余名。男女比は 4対6と女性のほうが多い。
その弓道部が昨年、創部80周年を迎えた。また、輔仁会館隣の旧弓道場跡地には新部室棟「富士見会館」が完成。新弓道場も館内に造られた。11月26日 には、創部80周年記念式典と新弓道場落成記念式典を併せて開催。来賓の島津学習院長や小倉学習院大学長、賀陽桜友会長をはじめ、100名近くの弓道部 OB・現役が集まり、晴れの門出を祝った。
OB会組織である櫻弓会の活動も活発だ。現役部員への経済的援助をはじめ、毎年4月にはオール学習院の集いへの参加、6月には櫻弓会総会、11月には大 学の弓道場で「射会」を開いている。現役との懇親の集いで、実技のほか現役部員による仮装大会も実施。OBが寄付した賞品がもらえるというのもユニーク だ。
弓道の基本である「礼」。「礼」を尽くす、その行動は現役のみならず、部を温かく見守るOBの間でも実践されているのである。

桜鎧会の歩み

創部50周年を迎えて

当部は、昭和28年に故内山寿朗初代会長、現飯田亮名誉会長を中心に同好会として創部致しました。日本で馴染みのないス ポーツでしたので、創部当時の先輩方は防具を揃えたり、部員を集めたりと大変ご苦労されたと思います。
昭和31年に関東学生アメリカンフットボール連盟に加入させて頂きました。当時の連盟は六大学中心で行われており、学習院は7番目に加入させて頂きまし た。連盟加入と同時に甲南大学との定期戦も開始。昭和43年には、12年間負け続けた甲南戦に勝利して、その年に同好会から部に昇格しました。
フットボールはメンタルな部分と格闘技が半々くらいに必要なスポーツなので、格闘技的な要素を持つスポーツが、学習院の校風の中で育っていくかどうか心 配でしたが、平成に入り部員数も増え、100名を擁するクラブに成長致しました。
平成3年には2部全勝優勝、1部との入れ替え戦に出場致しました。その後、学生の運動部離れで部員数の減少、3部転落等もありましたが、3年前に2部に 復帰し、昨シーズンは部員数60名で、16年ぶりに甲南大学(現在関西1部校)に勝利、四大戦2位、リーグ戦2位という成績を残せました。
さてわが部は今年(2003)で創部50周年を迎えることが出来ました。平成15年2月15日、東京、椿山荘でご来賓、桜鎧会員、現役約400名の方々にお集まり頂 き、賑やかに50周年の式典を執り行う事ができました。
50周年を機に現役に望む事は、上位を目指すことはもちろんですが、学習院の綿々と続く教育方針の下、フットボールを通じて心身を鍛え、”たくましく心 豊かな人間” に成長して欲しいと思います。桜鎧会会員、現役共々、力を合わせて微力ではありますが、学習院の発展の一助になるように精進致す所存でござ います。皆様におかれましても、今後とも益々のご指導、ご声援をお願い申し上げます。

アーチェリー部桜友会の歩み

アーチェリー部創部45周年を迎えて

学習院大学アーチェリー部は、日本のアーチェリー界の黎明期ともいえる昭和32年5月に、樺山庸夫先輩(昭 34経)他数名で「弓道部」再建を発起しました。ご指導いただいた全日本弓道連盟教士の小沼英治先生は、アーチェリーが持つ日本人に適合した新しい魅力に興味をお持ちになり、研究もされておられました。その折り「これからの時代は、洋弓も取り入れてみてはどうか」とのアドバイスをいただき、和弓・洋弓を併せた「弓道愛好会」として昭和34年、大学当局より正式に認められました。アーチェリーといえばロビンフッドのイメージしか思い浮かばなかった時代に、進取の気性に満ち溢れた諸先輩のご努力により、アーチェリー部(昭和42年、部に昇格)の母体となる愛好会が誕生したのです。

以来、今日までの45年間は苦難と波瀾の連続であったと思います。その度に、部長として永年にわたりご指導賜った波多野里望名誉教授をはじめ、大学当局のご理解にも支えられてきました。また、アーチェリー理解者のご尽力と、それぞれの時代を担った現役学生諸君のひたむきな情熱と真撃な取り組み、卒業生各位の温かい支援が相まって、今日まで歩み続けることができました。一方、学生諸君の活躍は、団体戦では関東学生アーチェリー連盟に所属し、不振の時代はあったものの、過去10年を見ると男女共、ほぼ1部リーグに在位し、結果、全日本王座決定戦でチャンピオンになるなどの活躍をしています。また、個人戦も全日本選手権大会、世界選手権大会において多くの選手が活躍し、学習院の名を上げているのも、伝統ある運動部として誇りに思うところです。
さて、創部45年の節目に当たり、「創業は難し、されど守勢はなお難し」とよく申しますが、組織を将来にわたって発展させてゆく苦労は、並大抵のものではありません。しかし、今日まで培ってきたブルズ・アイ倶楽部会員約500名の強固な結束力と、現役学生の他を圧倒する実力と情熱があれば、更に大きな飛躍への道につながると確信いたします。学習院の名声を更に高めるため一致団結し、努力して参る所存です。