輔仁会」カテゴリーアーカイブ

「學習院大學應援團」の歩み

古き良き伝統を受け継ぎ、奉仕の精神をもって学内外で大いに活躍中!

リーダー部、チアリーダー部.吹奏楽部の3部で構成されている「応援団」。一つの目標に向かって夢中になって取り組むその 姿は、人々に勇気と希望を与えている。
学習院で応援団が産声を上げたのは、昭和27年のこと。正式名は「學習院大學應援團」という。結成のきっかけは、東都大学の野球リーグでの学習院硬式野 球部の1部・2部リーグ入替戦。東都大学リーグに加盟して2年後の快挙であった。これに合わせて、初代団長の宇留千一郎氏(昭28政)を中心に応援団は結 成された。
以前から応援行為のそのものはあるにはあったが、常設的なものではなかったためまさにゼロからのスタート。リーグ戦では目前に迫っていたため、結成後に 応援団を養成している時間的な余裕はなかったと言う。
そうした状況下で、空手部を中心に既存の集団に協力を仰いで、応援団としての頭数を揃え、リーグ戦の応援に臨んだ。また、音楽部に楽器を提供しブラスバ ンドも結成した。応援人員を動員するのも大きな問題であった。当時は大学生だけでは1000人に満たなかったので、女子部から初等科、中等科の学生まで参 加して大応援合戦を展開したのである。
結成から六年後の昭和三十三年十一月。応援団の歴史上、大きな出来事があった。学習院大学硬式野球部が、東都大学一部リーグで優勝を果たしたのである。 優勝決定戦当日には皇太子殿下(現天皇陛下)や義宮様(現常陸宮殿下)をはじめ、八千人もの応援団が神宮球場に集い、大学応援団を中心に熱い応援が繰り広 げられた。当時の硬式野球部には優秀な選手がいたことは紛れもない事実ではあるが、硬式野球部を優勝に導く原動力の一つに応援団の活躍があったことも忘れ るわけにはいかないだろう。
その後、硬式野球部は二部に降格。応援団の活動も地味になりかけたが、そんな中、今でも続けられている早朝の学内清掃が始められた。
応援団のメインとなる活動は、学習院・成蹊・武蔵・成城の四大学が参加する「四大学運動競技大会」の応援活動だ。第一回が昭和二十五年に開催されてか ら、平成十一年で記念すべき第五十回目の大会を迎えた。学習院は通算三十九回の総合優勝、昭和五十五年の第三十一回大会からは破竹の二十連勝を果たしてい る。その成果を陰で支え続けてきたのが、他ならぬ応援団の応援活動であった。応援団としての愛校心が選手の心に火をつけるのだ。 かくして活動を続けてきた応援団にも新たな動きが現れる。昭和五十六年にチアリーダー部、平成元年には吹奏楽部を設置。
永年の念願であった三部構成が出来あがった。
近年は活動の幅も広がり運動部の応援や四大戦の応援活動を始め、オール学習院の集いや桜友会新年会など学校関連行事への参加も活発になってきている。平成 十一年七月に目白の百周年記念会館でおこなわれた天皇陛下のご成婚四十周年と即位十周年を祝う同期会には、吹奏楽部の現役メンバーが、「君が代」や「学習 院歌」を御前演奏。力強い演奏で会場を大いに盛り上げた。
また、三部それぞれの活動もおこなわれており、チアリーダー部は年数回の大会への出場、吹奏楽部は平成十年から始めた定期演奏会の開催へ向け、日々練習 に情熱の炎を燃やし続けている。その結果、学内のみならず学外での評価も上がっている。 講演活動は学内だけにとどまらない。昭和四十年から始まった四大学の応援団主催によるチャリティーショー「クローバーの集い」がその一つだ。恵まれない子 供たちにもエールを起ころうという奉仕の精神の実現を目標に、今まで二度の中断はあったものの毎年開催されている。
平成十一年の十一月七日には記念すべき三十回目が九段会館大ホールで開かれ、リーダー部の演舞やチアリーダー部の演技、吹奏楽部の演奏発表会などがおこ なわれた。この集いの収益金は、全額あしなが育英会に寄付され、恵まれない子供たちのために活用されている。
応援団には古き良き伝統が引き継がれていると同時に、新しい伝統も着実に作り上げられている。一つの目標に向かって一致団結して、精一杯努力する。そん なすがすがしい文化が応援団には息づいている。

ゴルフ部のあゆみ

学習院大学ゴルフ部の歴史は、昭和二十七年、安田弘氏を中心にした十名から始まった。当初はゴルフ部ではなく、同好会とし ての活動だった。中には当時としては珍しく、女性二名がいた。昭和三十年代になると次第に活動も軌道に乗り始め、それとともにゲーム戦でAブロックに入る までになる。現在Aブロックは将来プロゴルファーを目指すような学生が活躍しているが、このころはまだみんながアマチュアで、学習院も慶応と優勝争いを繰 り広げることができた。そして昭和四十年代、現在、ゴルフ部総監督をなさっている.生田憲一氏らの学生時代にその全盛期を迎えた。全日本大学ゴルフ対抗戦 や全日本学生ゴルフ選手権などの大会で団体や個人で、優勝こそできなかったものの二位に何度も入る活躍をした。
OB会の方に目を移すと、現在会員六百名を越え、会員相互の親睦を図るため、昭和五十七年に創部三十周年イベントとしてアメリカンクラブで、平成四年に は四十周年イベントとしてホテルオークラでパーティーを開催した。このパーティーにはOB・OGは当然としてその家族、または長年親交の厚い他大学のOB 会の方々も多数参加した。特に四十周年の時には常陸宮殿下・妃殿下をお迎えして盛大におこなわれた。
そして平成七年九月にはOB会に広く寄付を募り、多くの賛同者を得て学内にゴルフ練習場を作ることができた。一度に五人が練習できるほどの大きなもの で、現在では大学ゴルフ部、高等科ゴルフ部が練習に使用している。
コルフ部の伝統は、今後もOB会の強力な支援のもと、現役部員によって守られながら、さらなる発展をしていくことだろう。、2002年、創部五十周年を 迎える。そこには年代を超えたゴルフ好きたちが技を競い合っていることだろう。

空手道部のあゆみ

“空手を通じて、自分自身を創る”。
今なお受け継がれている「質実剛健」の気風はわずか5名の若武者の熱意から生まれた。

空手道部が創部されたのは、50年前の昭和25年(1950)でした。わずか5名の若武者が道場もなく、土の上で裸足に なって始めました。
その頃の空手道部は見事なほど無一文でした。最も、こうした物質的欠乏も、若い一途な情熱の前では無力に等しかったのです。
空手道部は、発足と同時に故工藤張雄先生(元女子部教諭)を師範としてお迎えしていましたが、そこには独自の自由な雰囲気と明るさがありました。
先生は決して技術面のみにとらわれることなく、むしろ空手の内面性、精神性を強調されるとともに、部員一人一人の自主的な行動に目を向けて、全人格的に 対処しようと心がけておられたようでした。
このような師弟の交流が、空手道部の原型を徐々に形成していったのだと思います。
こうした体験から、地味ではあるが「空手を通じ自分自身を創る」ことを学び、その思いは社会人となっても変わることなく今なお連綿と続いております。
同時に、「草創期から現在に至るまで底流として流れてきた「質実剛健」の気風は、豊かさの中にあっても風化させることなく、次世代に受け継いでいって欲 しい」。発足時の部員の一人・濱尾和男氏(昭28政)はこう言っています。
我が空手道部は試合制を採っていないので、自分たちの稽古が強いのか弱いのか分からないと思う人がいます。
しかし、どんな武道においても命を懸けた人の強さは比類なきくらいに強いことだけを念頭においておけばよいのです。競技会的勝負は問題外として、私たち は稽古を続けております。
どこか「哲学空手」といわれるのは、絶えず自分自身との闘いであり、止むことのない欲望との闘いであるからです。
苦から修行者には、何か暗いイメージがついて回るのは、一人で闘っており、他人と相容れない孤立の世界を尊んでいるからであり、これは仏教や密教の影響 かと思われます。
私たちの部は、十代から二十代にかけての青春時代に、できるだけいい汗をかけるところでありたいと願っております。いつも平常心を持ち続けることができ る人になれれば、素晴らしいと思いますし、また人間の温かさが分かる人になってもらいたいと念じております。
21世紀に必要な人材が当部より多く出ることが、強さの証明になることだと思います。空手に強く、かつ世の中に役立つ理想像を求めて止まないのが私たち の部であり、日本空手道の始祖・故船越義珍(松涛)先生の教訓であり、故江上茂師範の心技体の教えです。
50年の歳月が時代とともに変化して、心技体が変貌しっつありますが、特に人間の寿命が延びて80歳が平均になりつつあることは非常に意義があります。
空手道の考え方も時世に必要な事柄は採り入れていく必要があります。誰でも分かりやすい形と心の持ち方、知育と体育の違いなど、現代が求めているものの 重要性は何なのか探求していかなければならないと感じている今日この頃です。

文/渡辺伊佐保(昭43済)

硬式野球部 栄光の11・24

昭和33年11月24日、東都大学一部リーグで学習院大学硬式野球部が優勝を決める!

明治22年の野球部創設から60年後の昭和24年、新制大学発足と同時に大学硬式野球部の歴史が始まった。翌年には東都大学野球リーグに加盟し二部で善戦。わずか2 年後の昭和27年、めでたくリーグ1部に昇格した。その後一進一退を重ね、昭和33年春、2部転落の危機を迎える。入替戦の相手は、芝浦工大。しかし、ピッチャーの根立光夫氏(昭34政)が爪をはがしながらも力投し、1部の座を守った。
同年秋。学習院は中大に連敗し専大戦も敗れたが、農大、日大、駒大に連勝。春の最下位から優勝候補にのし上がった。
11月12日から14日の第1回優勝決定戦。中大が日大に大勝し、学習院は日大に敗退。続く中大戦は、後半まで2点リードした中大の優勝が決まったかに見えたが、学習院が劇的なサヨナラ勝ちを収め、三すくみに。11月18日から21日の第2回決定戦。その日大戦で、学習院はまたもサヨナラ勝ち。中大は日大に敗れ、学習院初優勝の期待が高まった。皇太子殿下(現天皇陛下)や各宮様方も応援に駆けつけ、学習院の応援スタンドは、空前の大応援団で埋め尽くされた。だが学習院は敗れ、またも三つ巴に。優勝預かりとの声もあったが、関係者の熱意でもう1回決定戦を行うことになる。
3度目の決定戦は11月23日・24日と神宮球場で行われた。1日目、学習院は日大に勝利。翌日午後0時36分、遂に優勝を懸けた中大戦を迎えた。ビッチャーの根立氏は、中大の強力打線を6回まで2安打に押さえ、2回にはタイムリーで1点先取。5回、田邊隆二氏(昭34経)の長打を小幡隆一氏(昭36 政)の犠飛で1点。続く北田次平氏(昭35経)、佐藤太美雄氏(昭36経)が連打し、5番の江野澤浩市氏(昭35政)がとどめのスリーランホームランを打ち込んだ。初優勝の栄冠を遂に学習院がものにしたのである。AP電は全世界に向け、「皇太子殿下ご出身の学習院大野球部が24日、東都大学リーグ戦で優勝。義宮、清宮両殿下を含む八千の群衆を前に中大と対戦し、5-2で快勝した」と伝えた。







桜蹴会のあゆみ

学習院サッカーを受け継ぐ者たちが取り組む姿勢はただ一つ。
  時代年代は違っても、変わらないのは「ベストを尽くす」こと。

 学習院でのサッカーサークルの胎動は、戦後間もない昭和24年。新制大学が発足した年。サッカー部の前身である「サッカー同好会」設立の申請が村田經和氏(昭29独専)を中心に学校当局になされ認可。翌25年から部員が集まり、同好会としての活動が開始された。
 昭和26年には、第2回目を迎えた「四大学運動競技大会」で、サッカーが正式種目に。学習院もプレイし、運動部セレクションでない学校では、一番の強さを誇った。
 2年に及ぶ同好会時代に確実に実績をあげたサッカー同好会は、昭和27年に「学習院大学輔仁会サッカー部」として活動を開始。初代部長に、豊崎光衛教授が就任し、一貫したサッカー理論を流布した。現代に脈々と受け継がれる学習院サッカーの土台が固まった。
 昭和28年、部としては初めての対外試合である「第1回全日本学生選手権大会」に参加。翌29年には「関東大学蹴球リーグ5部」に加盟し、部として本格的の活動を開始した。新規加盟後、サッカー部は怒涛の3年連続リーグ優勝。一気に3部昇格を果たした。3部に昇格後、昭和37年まで毎年ブロック優勝を成し遂げたサッカー部。この時期が、第1期の黄金時代であった。
 昭和38年になると、関東のリーグ制が改変され7部制に。学習院は国士舘、順天堂、青山学院など強豪ひしめく第3部に残った。そして昭和43年に再びリーグ制が改変され、東都リーグ1部に加盟。関東大会に優勝するも、関東2部の入替戦で上智に惜敗。昇格は実現しなかった。
 49~54年にかけては、東都2部に降格し、苦難の時期であったが、チーム強化が図られ、55年に7年ぶりの1部リーグ復帰。昭和60年にはリーグ優勝を果たした。そして、関東大会2位で入替戦に進出。慶應を2-1で下し、悲願の関東2部リーグ入りを成し遂げたのである。会場の西ヶ丘サッカー場には多くのOBが応援に駆けつけ、勝利の喜びを味わった。
 2年にわたって関東2部で健闘したが、再び東都1部降格。創部40周年の平成4年には、13年ぶりに東都2部に降格してしまった。ところが、これで終わらなかった。
 平成9年には東都2部リーグで、黒星なしの優勝をし、見事1部に復帰した。一進一退を繰り返しつつ、現役部員たちは活躍している。
 サッカー部のOB会「桜蹴会」では、毎月第3日曜の昼間、中高グラウンドに有志で集まりサッカーを楽しんでいる。現役の合宿には若いOBも参加し、胸を貸す。また、甲南や成蹊とOB戦も行っている。
 折しも今年は日韓共催でサッカー・ワールドカップが開催され、全国的にサッカー・フィーバーに沸いた。各地のどの試合会場も大いに盛り上がり、サッカー文化が日本にも根付いたのではないだろうか。
 学習院大学輔仁会サッカー部も今年、創部50周年を迎え、記念の催事が計画されている。今後とも初・中・高・大の一貫の取り組みで学習院のサッカーの伝統を継承し、活躍することを期待したい。「全体のレベルが上がった」とOBも認めるサッカー部。上位リーグを目指して、学習院の選手たちがベストプレイを繰り広げてくれるのが楽しみだ。

剣道部の歩み

学習院における剣道部の歴史は明治にまでさかのぼることができる。しかし、当初は部としてではなく、あくまでも授業の一環としての剣道であった。これは、剣道をはじめとする武道が当時それだけ重要視されていたという証であろう。 明治十二年三月制定の学則によると、男子部の一科目として剣柔術が挙げられており、同年十一月七日に道場開きがおこなわれ、十一月十八日より榊原鍵吉を教師に招き、剣道科目として授業が開始された。明治十五年度まで、中等科では正課の授業として取り入れられていたが、以降は随意科目とされた。また明治十四年四月十五日には明治天皇が学習院にご来校になられ、体操・馬術とともに剣柔術をご覧になっている。 明治十九年になると、一時剣道・柔道の二科目は廃止されたが、同二十四年には復活し、同二十九年十月十日には剣道大会が開催された。その成績がよかったこともあり、この大会は毎年開催されることが決定した。また明治三十八年からは満十歳以上の希望者に、放課後剣道を教授することとなった。 明治四十年に第十代学習院長に就任した乃木希典は、特に剣道を奨励し、自ら竹刀を持って指導されたと言われる。 剣道部・柔道部などの武課は、はじめに見たように終戦間近まで輔仁会所属ではなく正課時間外武課に位置付けられ、剣道部は昭和の剣聖と謳われた持田盛二範士をはじめとするそうそうたる師範のもとで中・高等科合同で運営され、また修業学生には進級試験と教官の考査により級や段位が与えられるなど活発な活動がおこなわれていた。、対外試合などの活動においては輔仁会所属の運動部とほとんと変わることなく活動していた。そのような状況の中で、昭和十八年には輔仁会は初等科・全教職員・学生を含む形に改組された。剣道部などの武道各部も、この時をもって正式に輔仁会所属となった。 しかしこの後、戦火は激しくなっていき、昭和二十年四月十三日の大空襲で目白の本館などの木造建築物のほとんどが消失してしまう。柔剣道場も消失しかけたが、学習院防護団員として宿直にあたっていた桜井槌蔵師範らの懸命の消火活動によりその難を免れ、同年五月五日から剣道・柔道部員が交代で道場防護のために宿直にあたった。この活動により柔剣道場は戦火をくぐりぬけることができた。しかし敗戦後、文部省の通達により武道が禁止となり、弓道・柔道部などとともに剣道部もその通達により活動を禁止される。 剣道が復活するのは昭和二十八年になってからである。現在の剣桜会の副会長である大井昭彦氏ら七人が剣道修練会と称する同好会として活動を再開した。活動再開には、剣桜会の先輩、佐藤蕃氏、そして故秋田一季氏が多大な協力をし、この二人を通じ多くの先輩や協力者を得た。当初、焼け残った道場は、まだ教室などとして使用されており、中央大学の道場などを借りたり、現在の大学北一号館辺りの天覧台付近地面や、時には道場の机や椅子を動かしてスペースを確保したりしながら稽古を続けた。このような苦しい時代を乗り越えて昭和三十三年に部としての活動を認められ、同年には寒稽古も復活した。 また対校試合では明治四十三年から独逸学協会中学校(現在の独協中学校)と、大正十三年十月からは東京高等師範学校附属中学校と中等科の試合(現在の附属戦)が行われるようになる。この他にも多くの学校との対抗戦があったが、現在に至るまでこの附属戦が最重要視され、対抗戦の直前には特に熱のこもった練習風景が繰り広げられている。また大学では甲南大学との総合定期戦が昭和三十二年の第二回大会から、四大学運動競技大会が昭和三十五年の第十一回大会から剣道も正式種目に加わった。 現在剣道部では、女子部を含む全学剣道部合同稽古として、夏は菅平で合宿、冬は学内で寒稽古を行っている。または寒稽古では毎年、院長をはじめ大学長、各科長、各学校の剣道部長から納会に参加し、院長より新しい段級を允許され皆勤者へは賞状と木盃が授けられる。学習院の校規に掲げられた基本理念である一貫教育を現在まさに形として体験しているのがこの剣道部である。 そして、亡くなるまで剣道部を愛し続けていた、故秋田氏が剣道について語った言葉に「美しい剣道をしなさい。それが一生懸命やるということなんです」という言葉がある。この言葉を胸に道場に稽古を見に行くと、この言葉が今も脈々と剣道部員一人一人に生きているような気がした。監督や先輩の言葉を聞き、それを必死に実行する。汗にまみれながら相手に向かって打ち込んでゆく。「稽古は厳しく、そして部生活は楽しく」これが学習院剣道部に根付いた心である。

ハワイアン桜友会「第7回アイランド・サウンド・フェスティバル」2010開催報告

ハワイアン桜友会では、平成22年3月6日(土)に、学習院創立百周年記念会館大ホールに500名を超える観客を集めて、チャリティコンサートを開催した。
H5N1型のインフルエンザ到来に備えて、ワクチン備蓄を計画する社団法人新型インフルエンザ対策協議会と、子供を事故で亡くした両親をサポートするNPO団体「とうきょう・はっぴーくらぶ」を支援することを目的に、およそ二年半ぶりの開催となった。
コンサートはニュース東京を発行する、都政新聞 株式会社の後援を受け、本学出身のハワイアン・ミュージシャン「鴻池 薫とハワイアン・ソウル・フレンズ」と「ハング・ルース」の二つのバンドが競演するコンサートに、六つのフラ教室の参加を得て、80名を超える踊り手が様々なハワイアンを披露する、賑やかな催しとなった。
およそ十年間に及ぶハワイアン桜友会の歴史に残る、盛大なコンサートに、観客は生憎の雨交じりの冷たい土曜日ながらも、ヒーリング・ミュージックとして、近年ファンを増やしているハワイアンを心から堪能していただけた様子。
今後も同様なコンサートを定期的に開催したいと、事務局では早くも次回の計画作りに入ったとか。出来れば現役の学生諸君のフラ、演奏に門戸を開放する会合にしたいと意気込んでいる。
OB、OG諸子も含め、参加を求められる方は、気軽に下記事務局にご連絡をいただきたいと呼びかけている。
ハワイアン桜友会 事務局
〒162-0041 東京都新宿区早稲田鶴巻町308-3-101
株式会社ウィザード・アール・ディ・アイ 内
平田 邦彦 宛

カントリー桜友会

設立総会&設立記念パーティー開催 (イベントホール「NOBILDUCA」港区六本木にて)

平成21(2009)年6月12日現在の会員数=80名のところ、52名が参加、議事委任数が11名で総会は成立しました。
開会に先立ち、発起人を代表して田中英雄さん(S36政卒)が設立の目的として「日本のカントリー会の創世期から沢山の学習院OBが活躍されており、その伝統を伝えてゆきたい」また、「現在も幅広いカントリーミュージックの愛好者がOB・OGの中に存在するのでその親睦をはかっていきたい」と設立の目的と経過を説明しました。又会員数80名と、予想を超える会員数に感謝の意を表しました。
引き続き設立総会は、事務局の野間信彦(S45政)の進行で、発足の経緯説明、会役員の選任、会則の承認、今後の活動計画が承認され、温かい拍手に包まれて総会を終了しました。
設立記念パーティーは、まず、大和田孝桜友会副委員長から、「カントリーミュージックは若いころみなが親しんだ音楽で、活躍されたOBも多く、今後の活動に期待する」との謝辞をいただき、続いて当会の名誉会長である井原高忠さん(S21高)の挨拶、来賓の、カントリー成城会会長の岡本様より祝辞と乾杯のご発生をいただきました。
そしてしばしの歓談、お食事タイムののち、19:20頃から昭和50年前後卒業メンバーによるブルーグラスバンド「OLD SALTS」の演奏を行いました。曲目は「Will meet again sweet heart」「When you kneel at mother’s grave」など12曲。12日の演奏に合わせて、年代の別れたピックアップメンバーが2回ほど練習しただけにしては、なかなか気のあったアンサンブルを奏で、会場から拍手と声援を集めていました。
ライブ演奏の2番手として、カントリー桜友会会長率いるGUN FIGHTERSが登場。このバンドは他校卒業生も参加している混成バンドで、昔懐かしいカントリーの名曲を中心に多くのレパートリーを持っています。会員で会計事務局の磯野美樹さん(平成14法卒)、野間信彦(昭和45政治)の歌のほか、川原三郎さん(昭和43経済)、水上立英さん(昭和50経済)白井雅昭さん(昭和48年経済)などがゲスト歌手で参加し、幅広い年代の会員によるライヴステージを行いました。
会場内でも、カントリーミュージックを話題に、年代を超えた親睦が図られ、曲の蘊蓄を語りあったり、名刺を交換したり和気あいあいとした雰囲気の中で、あっという間に終了時間を迎えてしまいました。今後は、このような親睦の輪をさらに広げ、深めて行こうと思っています。できれば、いろんな年代で構成されたバンドを編成し、例会や研究会が出来ればうれしいと思っています。

カントリー桜友会事務局 野間信彦

速桜会(速記研究会)懇親会開催2009

速記研究会のOB、OGの有志が久し振りに平成21(2009)年4月19日(日)「オール学習院の集い」に合わせて集まり、目白の学習院大学西1号館小教室で懇親会を開催しました。
今回の目玉は速記研の「宝物」で創設当時の安倍能成学習院長直筆揮毫による「学習院大学輔仁会速記研究会」の表札と当時からの速研写真アルバムでした。それらを教室に運び参加者各自が持ち寄った速研会報や懐かしい写真を見ながらみんな当時の学生気分に戻って時間の経つのも忘れて大いに盛り上がりました。現役速研委員長も出席し、現在の部室にも案内してもらって交流を深めました。夕方まで学食前のテラスで懇談、そのあと有志で目白近くの店で遅くまでワインを傾けました。

第8回放研シニア春秋会2009

第8回放研シニア春秋会(学習院創立百周年記念会館・2009年4月25日)
新緑の風薫る4月25日、初めて我々の母校である「学習院創立百周年記念会館」において第8回放研シニア春秋会が開催されました。当日はあいにくの雨でしたが大きく変貌したキャンパスにただ驚くばかりでした。あのピラミット校舎は・・・?この辺に我々の部室が在ったなア・・・・。数十年振りに母校を訪れた先輩たちからこんな呟きが聞こえてきました。
送られてくる桜友会報でも盛んに「母校を訪ねてみよう!」「もっと学習院をPRしよう!」というキャッチフレーズが目につきます。桜友会の役員を担務しておられる山本会長のご挨拶の中でも「この不景気の中で学生達の就職率は今年もトップで他大学と比較しても群を抜いているが、しかし受験生の合格者が他の有名校にいってしまうケースも増えている」と懸念しておりました。
昨年、この会でご挨拶をして頂いた桜友会内藤会長のお話の中でピラミット校舎の跡地には中央教育研究棟が完成し、その最上階に桜友会のラウンジもつくられる、とのことでした。最近の話ですと完成は平成22年春、あと1年後です。放研シニア春秋会の会員130名の皆さん!大きく変貌しつつある目白キャンパスを一度、訪ねてみては如何でしょうか。私たちが青春時代を過ごし、身をもって知っている母校・学習院の素晴しさを再認識することでしょう。
(記 千葉S41年卒)

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