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卓桜会 創部70周年記念祝賀会報告

令和元(2019)年6月22日、卓球部創部70周年記念祝賀会がリュド・ヴィンテージ目白にて開催されました。
学習院院長・内藤政武様、桜友会より副会長・楢原茂子様、斉藤守弘様、三田由美様、卓球界より織部幸治様、高木和健一様、そして甲南大学と四大学の卓球部OBOG会長のご出席を賜りました。また、北海道から九州まで全国のOBOGにも参加いただき、学生を含めて総勢144名の盛会となりました。昭和24年に創部された川西剛様のご発声による乾杯で懇親会がスタート。
ビンゴ大会などで盛り上がりました。OBOG会より新入部員へ統一ジャージの贈呈、監督の謝辞の後、卓球部に貢献いただいた方々への表彰が行われ、部長の小山明宏先生、総監督の六車徹様、相賀晋様、成澤武彦様、村野淑人様、岩上義彦様、亀田延幸様へ表彰状が贈呈されました。
男子主将の三位君のリードによる院歌斉唱、六車総監督の謝辞にてお開きとなりました。
岡本 誠(昭55経) okamotom@nifty.com


2019高等科サッカー部全国選手権都一次予選(ご報告)

1.2回戦 8月16日(金)
場所 学習院高等科
対戦相手:都飛鳥
台風の影響で高等科のグラウンドも南風が吹き荒れる中、9対1で都飛鳥高校に我が学習院高等科が快勝しました。

学習院が順当勝ち!9-1で都立飛鳥を撃破
8月16日、第98回全国高校サッカー選手権東京予選の1次予選2回戦、学習院対都立飛鳥が学習院高校で行われ、9-1で学習院が勝利し次戦に駒を進めた。
開始直後と前半終了間際に田中玲士のゴールなどで3点リードで折り返した学習院は、後半にも石川智祥、京谷理生、西郡佑馬らを中心に攻め続け、更に6点を奪い9点リードと試合を決定付ける。【高校サッカードットコムより】

2.3回戦 8月20日(火)
場所 学習院高等科
対戦相手:日大櫻丘
朝からの雨もやみ蒸し暑さだけが残る中、キックオフとなり前半後半順調に学習院ペースで進み、5対0で日大櫻丘高校に勝利しました。

3.一次予選決勝  8月22日(木)
場所 駒沢補助競技場
対戦相手:都立片倉(八王子)
内藤政武学習院院長が応援に駆けつけて頂いた結果、3対2で学習院高等科が勝利しました。
前半 2:0 :コーナキックからのヘディングとPK
後半 1;2 :シュートを相手キーパーがミス、後半の相手猛攻をしのぐ
学習院、2年ぶりに1次予選を突破!
8月22日、第98回全国高校サッカー選手権東京予選の1次予選ブロック決勝1日目が行われ、駒沢補助競技場で行われた第4試合で学習院が田村侑大と田中玲士、町田笙太朗のゴールにより3-2で都立片倉を下し2年ぶりに1次予選を突破した。【高校サッカードットコムより】


桜鞍会「お花見会」開催のご報告2019

今年は「目黒川のお花見クルーズ」を企画、35名が参加して4月2日(火)に開催されました。

午後2時に天王洲ヤマツピア桟橋を出航し、目黒川水門から満開の桜に彩られた目黒川に入る素晴らしいコースでした。

両岸に咲いた桜を鑑賞しながら、時おり橋の上から手を振る花見客に応えたり、ゆったりとした時の流れを楽しみながら目黒雅叙園付近まで航行したあと、70分余りのクルーズを終えて船は再び天王洲の桟橋に戻りました。

下船後には桟橋前にある地中海料理のレストランで懇親会が開かれました。
遠方は熱海や名古屋から、また年齢も10歳~83歳と幅ひろい年齢層の会員とそのご家族を迎えて年代を越えたおしゃべりに花を咲かせ、和気あいあいとした楽しい会となりました。
中にはちょうどアルゼンチンから一時帰国をされていたご兄弟を同伴されての参加者もいらっしゃり、久しぶりの日本のお花見を楽しんでいただけたようです。

近年は桜の開花が早く、3月中には咲き終えていることが多かったので開催前の一週間は天気と気温、桜の開花状況を何度も確認する毎日でしたが遊覧中には陽射しもあり、概ね良い天気のもとで終えることができたことは幸いでした。
今年は例年よりも花もちが長く、皆さんにはつかの間の春の恵みを満喫していただけたと思います。

初乗会開催のご報告(桜鞍会) 2019

平成31(2019)年3月16日、桜鞍会主催の恒例行事の初乗り会が開催されました。
前日の予報では大気が不安定で雨が降るかもしれないという心配な状況でしたが、当日は予想外の晴天で絶好の初乗り会日和となりました。日頃、馬術部をご支援いただいている来賓の皆様に加え、院からも内藤院長、耀専務理事、江崎常務理事にご出席を賜りました。
大輪の白木蓮が咲く馬場で、まずは学生によるカドリールと部班運動が行われます。音楽に合わせて優雅に人馬一体の演技をする様子にうっとり癒されました。
次に、会員による琴平競技です。この日のために乗馬クラブで練習を積んでいらしたというベテランのOBの方も機敏な動きで枠に滑り込みます。観客からも笑いや歓声のあがる盛り上がりを見せました。
お昼からは桜ラウンジに場所を移して懇親会が行われました。懇親会では桜鞍会の勝田会長からの冒頭の挨拶の中で、「本日の初乗り会に、内藤院長はじめ院のトップの方々にご出席いただいた事と日頃の学校の馬術部に対するご支援に深く感謝申し上げます。本年は、明治12年に『学習院馬術開業式』が開催されて140周年の記念の年になりますが、現役の部員諸君は連綿と続いている馬術部の栄光の歴史に相応しい結果を出すように精進してほしい」とのお話がありました。
桜友会の東園会長の乾杯のあとの内藤政武学習院院長からのご挨拶では「今回初めて琴平競技を拝見しましたが、大変面白く、学校経営の良いヒントになりました。」とユーモア溢れるお言葉をいただきました。
懇親会は学生を含めて総勢約100名の大変賑やかな会となりました。ビンゴ大会ではとても素人とは思えないほどスピーチが上手な学生さんの司会により、大人から小さなお子様まで楽しめる笑いの絶えないゲームになりました。
今回の開催にあたって、現役学生の方々と多く接しましたが、どなたも皆テキパキと行動される様子にさすが学習院馬術部!ととても嬉しく思いました。

現役学生によるカドリールの様子

OB、OGによる琴平競技の様子

内藤学習院院長のご挨拶

東園桜友会会長による乾杯

勝田桜鞍会会長による琴平競技の授賞式の様子

懇親会の様子

新艇エイト「颯」進水式

エイト 颯 (はやて) の進水式は、平成31(2019)年3月10日(日)、学習院戸田艇庫において、桜友会長 東園基政様のご臨席を仰ぎ、多くのの桜艇会会員が参集して開催されました。
第一部の進水式は、和楽備(わらび)神社によって行われ、創部 130 周年の節目にふさわしく厳粛に挙行されました。ご多忙な中をご出席いただいた東園会⾧からは、命名いただくとともに、今後の漕艇部への期待が込められたご挨拶を頂戴しました。
その後、学習院戸田艇庫 2F において懇親会が行われました。懇親会では、大学漕艇部・張谷主将より、新艇建造にあたってご支援いただいた皆様への感謝の気持ちとともに、今後の抱負が述べられました。
最後に、大学漕艇部・森下くん、横山くんのエールで結ばれ、進水式の全日程が盛会裏のうちに終了しました。
改めまして、エイト建造にあたりご支援・ご協力いただきました桜友会の皆様、学校関係者の皆様、桜艇会の先輩方に深く感謝申し上げます。

桜艇会事務局 安部健太

<進水式出席者(敬称略)>
東園基政桜友会⾧、和光純大学漕艇部⾧、小林孝之輔、鈴木信太郎(S34)、 松尾俊吉(S36)、岩城政三(S43)、芳我孝雄(S42 高)、児玉元(S47)、黒田努(S51)、松高直茂(S53)、前岡一郎、小林直樹、中山雅之、片野築、土屋哲夫(S58)、笠原正晃、浮田秀明、松浦雅仁、石井秀幸(S59)、高城彰吾(S60) 竹内理秀(S63)、清水俊輔(H5)、中澤誠一郎(H7)、和田克之(H18)、横堀翠(H21)、安部健太(H22)、照井友樹(H25)、内藤晧文、岩下玲(H26)、 恩田裕梨香、坂本江梨、澤地栞莉(H27)、渡邉直樹、尾上由紀子、薄木日向(H28)、相川俊平、山口ゆり(H30) 37 名
ありがとうございました。

剣桜会(剣道部)

美しい剣道をしなさい。

それが一生懸命やると

いうことなんです。

(秋田一季さんの言葉)

秋田一季(あきた・かずすえ)
大正4年12月生まれ。昭和14年、学習院高等科卒業。同18年、東北帝国大学卒業。同28年2月、宮中御歌会諸役拝命。同62年より桜友会会長、学校法人学習院理事を歴任。平成9年3月30日死去

 

漕艇部の歩み

学習院の部活動で最古の歴史をもつ「漕艇部」。その歴史は、明治24年11月の東京府尋常中学校(都立日比谷高校)学友会の第1回競漕会に参加したことから始まった。
発足当初の名称は「端艇郡」。明治25年には、部で初めてとなる端艇3隻(いぶき、のわき、はやち)を新造した。当時端艇を持っていた学校は、東京帝国大学や高等商業学校などの2、3校。大変貴重なものであったことは想像に難くない。
同年10月、皇太子殿下(大正天皇)の臨席を仰ぎ、墨田川で進水式が行われた。この時、殿下から賜った御下賜金で「優勝旗」を製作。明治27年の「輔仁会端艇競漕会」からこの優勝旗争奪戦が繰り広げられ、以後毎年競漕会が開かれるようになった。
明治33年に名称を「水上部」に変更。明治41年の「全国中学校選手競漕大会」参加をきっかけに、対外的な活動も始まった。大正13年「第1回全日本スカール選手権」を獲得。以後、昭和3年からおよそ10年に渡り選手権を獲得し「スカール王国学習院」の名をほしいままにした。
昭和18年には、現後援会会長の中野新一郎氏が、海の記念日海洋競技大会スカール競漕で、全日本選手権保持者を破り、戦時下最後の錦を母校に飾ることになる。
昭和24年、大学開設と同時に大学水上部が発足。戦前に続いてスカールでたびたび全日本選手権を獲得し、伝統を保持した。空襲で端艇が焼失したため、しばらく借艇での練習だったが、26年にOBと学校の援助でフォアを建造。28年には後援会も発足し「漕艇部」と改称した39年、埼玉の戸田ボートコースに艇庫が完成し、今年7月まで、30余年に渡り部員たちの活動の場となった。
昭和30年代以降は戸田レガッタ、全日本大学選手権などでスカール、フォア、エイトでの優勝や上位進出、そして62年の全日本軽量級選手権では対抗エイトで準優勝と活躍している。近年では女子部員の活躍も目立つようになっている。
海外交流も積極的で、平成10年10月、高等科漕艇部はイギリスの名門パブリックスクール「イートンカレッジ」のボート部と親善試合を行った。イートンクルーの強さを見せつけられた試合だったが、試合後は大いに懇親を深めた。
明治以来の歴史と伝統をもつ「漕艇部」。新艇庫完成をきっかけに、更なる飛躍を期待したい。

硬式野球部 栄光の歴史に映えて

学習院野球部は今年(2001年)で創部百十二周年を迎えます。
米国人教師によって野球が日本に紹介された明治の初期から、学習院では「ベースボール同好会」が結成され、他校との試合が行われていたようです。
正式に学習院野球部として記録に残っているのは、一八八九年(明治二十二年)輔仁会が創立され輔仁会維誌が創刊されてからであるため、その時を野球部創部の年としております。
その頃は慶応、一高、農学校(後の東大農学部)、高等商業(一橋大学)、青山学院、明治学院等と試合を行ったという記録が残されています。
このように、正に日本の野球の黎明期に創部された伝統ある学習院野球部は、その長い歴史の中で日本のアマチュア野球界に多くの名選手を輩出し、また幾多の輝かしい実績を残してまいりました。その中でもとりわけ燦然と輝く二つの偉大な戦跡があります。
1.インターハイ優勝  明治の初めに我が国に紹介されたベースボールが、野球として国民に親しまれるようになり、その後大正時代に入って学生野球を中心に全国的に盛んになりました。特に大正十三年甲子園球場が完成してからは「中等野球」が人気を博しました。
昭和に入ってからは東京六大学の最盛期でありましたが、学習院高等科からも多くの先輩が東京六大学でご活躍されました。
当時は、この「中等野球」と「大学野球」のほかに、「高等専門学校野球」がありました。これは高等学校(旧制)と高等専門学校が一緒に戦うもので、大正十三年に第一回の「全国高等専門学校野球大会」が開催されております。
東京、京都、東北、九州の四帝国大学が主催、大阪朝日新聞社が後援で各帝国大学所在地で予選を行い、地区代表四チームで優勝戦を行うというものでした。
その後紆余曲折があり、昭和十年、高等学校と専門学校が分かれたため、高等学校野球連盟が設立され、インターハイが誕生しました。
学習院高等科は昭和十年の第一回大会より参加しておりましたが、戦後初の大会となつた第九回大会(昭和二十一年)で見事優勝致しました。
当時の様子について、チームの主将であった吉井滋先輩(昭和二十二年高等科卒)が「旧制高枚野球部史」に寄稿された追想文を 「学習院野球部百年史」から引用させていただきます。
「”終戦”旬日を経て復員、真っ先にかけつけた目白台のグラウンドは芋畑と化していた。しかし盛夏の日差しは敗戦も知らぬ気に燦として輝き、周辺の森の樹々はあくまで緑一色 木の間越しに射し込む陽光は、三島由紀夫いうところの影に愁ひあり、光に悲しみありそのもので、大げさにいえば国破れて山河ありの感があつた。
昭和二十一年、この歳のインターハイは敗戦の痛手より未だ立ち直れなかったこともあって、例年の如く夏ではなく秋に行われることになり、また輸送状況きびしく、全国各地より一ヵ所集結の全国大会開催は無理となり、関東、関西、東北、九州の四地区予選勝ち抜きチームが京都三高球場で京都帝大主管の下に決勝大会を行った。
ここで当時の学習院のメンバーを列記すると、
部長 西崎一郎先生
監督 瀬川昌治
三年 吉井(主将)、芝、渡辺兄、伊達
二年 富永、小出、大月、渡辺弟
一年 松平、和波、真田、亀井、岡部、鹿島、武村、佐久間
マネージャー 松方、益田、国司
東京における予選は松本、成城、都立、成蹊を連破して関東地区優勝、決勝大会は、関西浪高、東北二高、九州福岡高でこの四者により準決勝を行い、浪高を破った学習院と福岡高を破った二高が優勝戦に駒を進めることになった。
優勝戦の学習院のメンバーは次の通り。
(捕) 吉井
(二) 渡辺兄
(左) 芝
(右) 岡部
(遊) 小出
(一) 佐久間
(投) 富永
(三) 渡辺弟
(中) 武村
試合結果は当時高専部門の鳥取高専の山根投手(毎日オリオンズ、元大洋コーチ)と並び称せられた富永投手の予想外の不調で、三回までにつけられた絶望と思われる七点差を後半見事ひっくり返して、結局十四対九で全国制覇を成し遂げた次第である。
往時を顧みれば正に漠として夢の如しであるが、優勝の一瞬、富永投手とかけよって抱き合ったこと、逆転の満塁三塁打を打ったこと等未だ脳裏にはっきりと刻み込まれている。」
戦後第一回のインターハイで見事優勝された先輩方の姿が浮かび上がってくるようですが、正に「健児の意気を君見ずや 我が校の名は学習院」と高らかに歌い上げ、母校の名を世に知らしめた快挙でありました。
2.東都大学リーグ一部優勝
インターハイ優勝後、学制改革により昭和二十四年旧制高等科に替り新制大学が設置されました。野球部は昭和二十五年に東都大学リーグに加盟し、秋のシーズンから二部リーグに参加することとなりました。
加盟後四シーズン目の二十七年春待望の一部昇格を果たしました。その後は強豪校ひしめく一部で善戦しておりましたが、三十三年春に最下位となり芝浦工大との入替戦となりました。 一勝一敗一分のあとの第四戟、九回佐藤太美雄選手のダメ押しホームランで辛うじて二部転落を免れました。
そしてその昭和三十三年秋。苦しい一点差の試合をモノにしながら、勝ち点三をあげ最後は、学習院・日大・中央の三校が同率首位となり、東都大学野球史上初の三校による優勝決定戦を行うことになりました。
最初の試合で日大を破った中央が学習院に勝てば優勝という試合で、八回の表まで二対0と中央にリードを許していた学習院が八回の裏同点に追いつき、そして九回裏にサヨナラ勝ちと正に奇跡的な試合を制し、その結果三校が一勝一敗となり二回目の優勝決定戦を行うことになりました。
第一回優勝決定戦
中 央 十対四 日 大
日 大 二対一 学習院
学習院 三対二 中 央
二度目の優勝決定戦は神宮球場で行われました。
第一戦で日大に勝った学習院は中央に勝てば優勝という大一番を迎えました。その時の学習院の応援席には皇太子殿下(今上陛下)、義宮殿下(常陸宮殿下)清宮さまをはじめ六千人を越える大応援団で埋まりました。結果は一点差で惜敗し、三度三すくみとなりました。
第二回優勝決定戦
学習院 二対一 日 大
日 大 六対一 中 央
中 央 三対二 学習院
夕闇迫る神宮の会議室で関係者が集まり、十一月も半ばを過ぎたしここで優勝は預かりにしようという声も出たが、前年度連盟の理事長をつとめた学習院の柳谷武夫野球部長をはじめ学習院関係者の強い希望もあり、最後の優勝決定戦が行われることになりました。
三すくみの三度目、最後の決定戦は学習院・日大戦から始まりました。
先攻の学習院は二回江野沢がレフト線に二塁打、穴沢の中前タイムリーで二点を先取。五回には二死から田辺が右中間に二塁打、小川の内野安打で一、三塁となり、北田の右中間タイムリー二塁打で二点を加え、四村0とした。 学習院の先発井元は速球と鋭いカーブで五回まで日大を二安打と押えていたが、六・九回に点を取られ一点差と詰め寄られたが、力投。最後は逃げ切りました。
再びあと一勝で優勝というチャンスをつかんだ学習院は今シーズン五度目の中央戦に望みました。
学習院の初優勝を見んものと駒沢球場に駆けつけた応援席は五千人を越える観衆で埋まりました。
五回先頭のキャプテン田辺が中堅に三塁打を放ち、小幡の犠飛で先ず一点、続く北田、佐藤が連打を浴びせたあと、江野沢がライトスタンドにホームランを打ち、止めをさしました。
エース根立は中央打線を押え遂に念願の一部優勝を果たすことができました。
第三回優勝決定戦
学習院 四対三 日大
学習院 五対二 中央
なお東都リーグ担当記者による投票の結果、個人賞は次の通りとなりました。
最高殊勲選手 田辺隆二
最優秀投手  井元俊秀
敢闘賞    根立光夫、穴沢健
またベストナインにも学習院から下記の三選手が選ばれました。
ベストナイン 遊撃手 田辺隆二
外野手 北田次平、佐藤太美雄
その夜目自の町は提灯行列でごった返し、AP電は全世界に学習院の優勝を報道したそうです。
正に豊富な練習量に裏打ちされた勝利への執念、気力、またそれを支えるOB・学校関係者の熱意、それらが一体となって、キラ星の如くプロ候補選手を揃えた強豪校を打ち破ったことは、正に快挙であり、野球関係者のみならず、多くの人々の共感と評価を得ることとなりました。
現在現役野球部は東都大学三部リーグで戦っておりますが、先輩方が築き上げられた伝統の重みをかみしめて、「東都に学習院あり」とその存在感を再度世間に知らしめるべく、更に練習に励み「学習院野球」の復活を目指して欲しいと思っております。

東都大学リーグ1部優勝決定直後のベンチ入りメンバー

硬式野球部の優勝を可能にした「無欲の栄冠」。そのスポーツマンシップは今後も多くの人に語り継がれ、希望を与え続けるだろう。

読売巨人軍浅沼監督の薫陶を受けたOB会名誉会長の鈴木重臣氏(昭12高)

大学野球部の草刈廣監督(昭31政)。中等科との試合ではピッチャーとして大活躍!

学習院柔道百二十・柔桜会五十周年記念祝典

「脈々と受継がれる学習院柔道の歴史」
平成十八年一月二十八日(土)午後三時より百周年記念会館に於いて嘉納講道館長を始め多数のご来賓、柔桜会員、学生一七〇余名が出席して「学習院柔道百二十年・柔桜会五十周年記念祝典」を開催しました。
又この日、記念事業として進められてきた学習院柔道百二十年史が刊行し、出席者に披露されました。
学習院柔道は、明治一五年(一八八二)嘉納治五郎師範が学習院高等科教師に就任し、講道館を創設した翌明治一六年(一八八三)に院内に柔道場が完成すると同時に柔道が学校の正科として日本で初めて採用されることにより始まりました。以来今年で一二三年目を迎える学校柔道としては日本最古の歴史をもっています。
師範は教育者としての理念、情熱、能力を初代立花種恭院長、二代目谷干城院長に高く評価され教育実務を任されていました。師範は柔道を通じて人格品性に重きをおき、かつ人間としての平等の精神を学ばせたと考えられます。師範の「よい教育をしてよい人間を学校から送り出す」という教育理念により誕生した学習院柔道は学校柔道としての特徴をもち、いまなお色濃く残しています。
出席者は学習院柔道の黎明期から戦後復活の歴史をあらためて知りその重みを強く実感しました。
学校教育の正科の中から誕生した学習院柔道部は、学校柔道の特徴を持ち現在も残しています。戦後も高等科柔道部は高等科OBの応援によりいち早く復活し、大学柔道部にもその伝統が引き継がれました。従って柔道部には運動部にありがちな上級生が下級生に対して無為に威張るという悪しき伝統はありません。同じ畳で修業する仲間として互いに認め合い切磋琢磨する学習院柔道の特徴はこうした長い学校柔道の伝統とOBの支えにより培われてきたものだと知り感動しました。

学習院柔道百二十年史 「今作らねば、その機会はなくなってしまう」
学習院柔道百二十年史編纂は、当時、学習院院長を務めておられた島津久厚柔桜会名誉会長の一言で平成一三年から始まりました。学習院柔道百二十年史は、学習院柔道百十五年の歩みの編纂を含めれば七年、その編纂だけでも五年余の歳月をかけ、織部編纂委員長始め編纂委員の努力によりようやく刊行しました。明治・大正・昭和・平成に亘る一二〇年の長い歴史の散逸する資料や貴重な文献・関係者の方々のお話を求め東奔西走し、幾度となく編纂会議が開かれました。亡くなられた先輩方も多く、貴重なお話も聞けず、もっと早く始めたらと残念な思いが多くありましたがぎりぎりの時間の中で完成することができました。
学習院柔道百二十年史は学習院の柔道史であるとともに、日本の柔道史にとっても黎明期の柔道と学校柔道の歴史を伝える貴重な一冊となったと思います。

ゴルフ部創立50周年パーティー2002

50年の歴史を刻んだコルフ部の仲間たちの集い  ゴルフ部創立50周年記念
平成14年7月1日、東京のホテルオークラ別館で学習院大学ゴルフ部の創立50周年記念パ-ティーが催された。常陸宮殿下・妃殿下がご臨席になられたこともあってか、OB・OG・来賓・学生合わせて約300名もの方々が参加した。
会は学習院大学ゴルフ部OB会会長の重宗信正氏(昭33政)の挨拶で始まった。今回の50周年を祝うとともに、「100周年に向けてがんばりましょう」という力強い言葉も飛び出した。島津学習院長のお祝いの言葉、来賓の関東学生ゴルフ連盟会長の松本富夫氏の乾杯に続きパーティーが始まった。パーティーの席では学習院出身のハワイアンバンド「ドゥリーミーアイランドアス」の演奏とハワイアンダンスが彩りを添えた。
会の途中では、現役の男子ゴルフ部の、飯田嘉友主将によるプロジェクターを利用した「学習院大学ゴルフ部のあゆみと現役活動報告」や、抽選会などがあった。ゴルフ部の歴史を語る場面では創立当時の写真や、大会の時の写真などが映し出され、皆さん、じっと画面に見入っていた。また抽選会では、賞品のパターが常陸宮殿下に当たるという一幕も。
20時30分、ゴルフ部OB会幹事長の大野了一氏(昭47政)の中締めの言葉で楽しいひとときは散会となった。
また、桜友会のゴルフ大会にも毎回、常陸宮両殿下がご臨席になるが、これも学習院大学ゴルフ部OB会の協力によるものである。

創部50周年を視野に入れて
学習院大学ゴルフ部OB会会長
重宗信正(昭33政)
● 創部者、安田 弘先輩の命でOB会会長を引き継ぎ2期目になります。安田前会長の代には、大学側のご理解とOB各位の熱意と協力でOB・現役待望のゴルフ練習場が学内に完成しました。そして、ゴルフ部も平成14年(2002年)には創部50周年を迎えます。OB会の活動も年々充実し、現役への支援費の増額、男子中・高等科ゴルフ部の強化、女子中・高等科のゴルフ部創部支援等、精一杯、次世代を担う若者へのメッセージを企画し、実行していきたいと思います。皆様のご理解とご協力をよろしくお願いいたします。

学習院大学ゴルフ部OB会名誉会長
安田 弘(昭31経)
● 私たちが学習院で初めてゴルフ同好会をつくったのが、昭和27年です。当時は中村寅吉と小野光一がカナダカップに優勝し活躍していたゴルフブームがはじまった時で、10名の同好会員でスタートしました。当時としては珍しく、女性も2名おりました。ただその時は、全く資金も、肝心のクラブもないといった状況で、多くの方の好意やメンバーの知恵と苦労で資金を集めて練習ネットなどを買い、今の百周年記念会館のあたりで活動していました。当時を思い出すと、本当に苦しかったけれど楽しい時期でした。