硬式野球部 栄光の歴史に映えて

学習院野球部は今年(2001年)で創部百十二周年を迎えます。
米国人教師によって野球が日本に紹介された明治の初期から、学習院では「ベースボール同好会」が結成され、他校との試合が行われていたようです。
正式に学習院野球部として記録に残っているのは、一八八九年(明治二十二年)輔仁会が創立され輔仁会維誌が創刊されてからであるため、その時を野球部創部の年としております。
その頃は慶応、一高、農学校(後の東大農学部)、高等商業(一橋大学)、青山学院、明治学院等と試合を行ったという記録が残されています。
このように、正に日本の野球の黎明期に創部された伝統ある学習院野球部は、その長い歴史の中で日本のアマチュア野球界に多くの名選手を輩出し、また幾多の輝かしい実績を残してまいりました。その中でもとりわけ燦然と輝く二つの偉大な戦跡があります。
1.インターハイ優勝  明治の初めに我が国に紹介されたベースボールが、野球として国民に親しまれるようになり、その後大正時代に入って学生野球を中心に全国的に盛んになりました。特に大正十三年甲子園球場が完成してからは「中等野球」が人気を博しました。
昭和に入ってからは東京六大学の最盛期でありましたが、学習院高等科からも多くの先輩が東京六大学でご活躍されました。
当時は、この「中等野球」と「大学野球」のほかに、「高等専門学校野球」がありました。これは高等学校(旧制)と高等専門学校が一緒に戦うもので、大正十三年に第一回の「全国高等専門学校野球大会」が開催されております。
東京、京都、東北、九州の四帝国大学が主催、大阪朝日新聞社が後援で各帝国大学所在地で予選を行い、地区代表四チームで優勝戦を行うというものでした。
その後紆余曲折があり、昭和十年、高等学校と専門学校が分かれたため、高等学校野球連盟が設立され、インターハイが誕生しました。
学習院高等科は昭和十年の第一回大会より参加しておりましたが、戦後初の大会となつた第九回大会(昭和二十一年)で見事優勝致しました。
当時の様子について、チームの主将であった吉井滋先輩(昭和二十二年高等科卒)が「旧制高枚野球部史」に寄稿された追想文を 「学習院野球部百年史」から引用させていただきます。
「”終戦”旬日を経て復員、真っ先にかけつけた目白台のグラウンドは芋畑と化していた。しかし盛夏の日差しは敗戦も知らぬ気に燦として輝き、周辺の森の樹々はあくまで緑一色 木の間越しに射し込む陽光は、三島由紀夫いうところの影に愁ひあり、光に悲しみありそのもので、大げさにいえば国破れて山河ありの感があつた。
昭和二十一年、この歳のインターハイは敗戦の痛手より未だ立ち直れなかったこともあって、例年の如く夏ではなく秋に行われることになり、また輸送状況きびしく、全国各地より一ヵ所集結の全国大会開催は無理となり、関東、関西、東北、九州の四地区予選勝ち抜きチームが京都三高球場で京都帝大主管の下に決勝大会を行った。
ここで当時の学習院のメンバーを列記すると、
部長 西崎一郎先生
監督 瀬川昌治
三年 吉井(主将)、芝、渡辺兄、伊達
二年 富永、小出、大月、渡辺弟
一年 松平、和波、真田、亀井、岡部、鹿島、武村、佐久間
マネージャー 松方、益田、国司
東京における予選は松本、成城、都立、成蹊を連破して関東地区優勝、決勝大会は、関西浪高、東北二高、九州福岡高でこの四者により準決勝を行い、浪高を破った学習院と福岡高を破った二高が優勝戦に駒を進めることになった。
優勝戦の学習院のメンバーは次の通り。
(捕) 吉井
(二) 渡辺兄
(左) 芝
(右) 岡部
(遊) 小出
(一) 佐久間
(投) 富永
(三) 渡辺弟
(中) 武村
試合結果は当時高専部門の鳥取高専の山根投手(毎日オリオンズ、元大洋コーチ)と並び称せられた富永投手の予想外の不調で、三回までにつけられた絶望と思われる七点差を後半見事ひっくり返して、結局十四対九で全国制覇を成し遂げた次第である。
往時を顧みれば正に漠として夢の如しであるが、優勝の一瞬、富永投手とかけよって抱き合ったこと、逆転の満塁三塁打を打ったこと等未だ脳裏にはっきりと刻み込まれている。」
戦後第一回のインターハイで見事優勝された先輩方の姿が浮かび上がってくるようですが、正に「健児の意気を君見ずや 我が校の名は学習院」と高らかに歌い上げ、母校の名を世に知らしめた快挙でありました。
2.東都大学リーグ一部優勝
インターハイ優勝後、学制改革により昭和二十四年旧制高等科に替り新制大学が設置されました。野球部は昭和二十五年に東都大学リーグに加盟し、秋のシーズンから二部リーグに参加することとなりました。
加盟後四シーズン目の二十七年春待望の一部昇格を果たしました。その後は強豪校ひしめく一部で善戦しておりましたが、三十三年春に最下位となり芝浦工大との入替戦となりました。 一勝一敗一分のあとの第四戦、九回佐藤太美雄選手のダメ押しホームランで辛うじて二部転落を免れました。
そしてその昭和三十三年秋。苦しい一点差の試合をモノにしながら、勝ち点三をあげ最後は、学習院・日大・中央の三校が同率首位となり、東都大学野球史上初の三校による優勝決定戦を行うことになりました。
最初の試合で日大を破った中央が学習院に勝てば優勝という試合で、八回の表まで二対0と中央にリードを許していた学習院が八回の裏同点に追いつき、そして九回裏にサヨナラ勝ちと正に奇跡的な試合を制し、その結果三校が一勝一敗となり二回目の優勝決定戦を行うことになりました。
第一回優勝決定戦
中 央 十対四 日 大
日 大 二対一 学習院
学習院 三対二 中 央
二度目の優勝決定戦は神宮球場で行われました。
第一戦で日大に勝った学習院は中央に勝てば優勝という大一番を迎えました。その時の学習院の応援席には皇太子殿下(今上陛下)、義宮殿下(常陸宮殿下)清宮さまをはじめ六千人を越える大応援団で埋まりました。結果は一点差で惜敗し、三度三すくみとなりました。
第二回優勝決定戦
学習院 二対一 日 大
日 大 六対一 中 央
中 央 三対二 学習院
夕闇迫る神宮の会議室で関係者が集まり、十一月も半ばを過ぎたしここで優勝は預かりにしようという声も出たが、前年度連盟の理事長をつとめた学習院の柳谷武夫野球部長をはじめ学習院関係者の強い希望もあり、最後の優勝決定戦が行われることになりました。
三すくみの三度目、最後の決定戦は学習院・日大戦から始まりました。
先攻の学習院は二回江野沢がレフト線に二塁打、穴沢の中前タイムリーで二点を先取。五回には二死から田辺が右中間に二塁打、小川の内野安打で一、三塁となり、北田の右中間タイムリー二塁打で二点を加え、四対0とした。 学習院の先発井元は速球と鋭いカーブで五回まで日大を二安打と押えていたが、六・九回に点を取られ一点差と詰め寄られたが、力投。最後は逃げ切りました。
再びあと一勝で優勝というチャンスをつかんだ学習院は今シーズン五度目の中央戦に望みました。
学習院の初優勝を見んものと駒沢球場に駆けつけた応援席は五千人を越える観衆で埋まりました。
五回先頭のキャプテン田辺が中堅に三塁打を放ち、小幡の犠飛で先ず一点、続く北田、佐藤が連打を浴びせたあと、江野沢がライトスタンドにホームランを打ち、止めをさしました。
エース根立は中央打線を押え遂に念願の一部優勝を果たすことができました。
第三回優勝決定戦
学習院 四対三 日大
学習院 五対二 中央
なお東都リーグ担当記者による投票の結果、個人賞は次の通りとなりました。
最高殊勲選手 田辺隆二
最優秀投手  井元俊秀
敢闘賞    根立光夫、穴沢健
またベストナインにも学習院から下記の三選手が選ばれました。
ベストナイン 遊撃手 田辺隆二
外野手 北田次平、佐藤太美雄
その夜目自の町は提灯行列でごった返し、AP電は全世界に学習院の優勝を報道したそうです。
正に豊富な練習量に裏打ちされた勝利への執念、気力、またそれを支えるOB・学校関係者の熱意、それらが一体となって、キラ星の如くプロ候補選手を揃えた強豪校を打ち破ったことは、正に快挙であり、野球関係者のみならず、多くの人々の共感と評価を得ることとなりました。
現在現役野球部は東都大学三部リーグで戦っておりますが、先輩方が築き上げられた伝統の重みをかみしめて、「東都に学習院あり」とその存在感を再度世間に知らしめるべく、更に練習に励み「学習院野球」の復活を目指して欲しいと思っております。

東都大学リーグ1部優勝決定直後のベンチ入りメンバー

硬式野球部の優勝を可能にした「無欲の栄冠」。そのスポーツマンシップは今後も多くの人に語り継がれ、希望を与え続けるだろう。

読売巨人軍浅沼監督の薫陶を受けたOB会名誉会長の鈴木重臣氏(昭12高)

大学野球部の草刈廣監督(昭31政)。中等科との試合ではピッチャーとして大活躍!

学習院柔道百二十・柔桜会五十周年記念祝典

「脈々と受継がれる学習院柔道の歴史」
平成十八年一月二十八日(土)午後三時より百周年記念会館に於いて嘉納講道館長を始め多数のご来賓、柔桜会員、学生一七〇余名が出席して「学習院柔道百二十年・柔桜会五十周年記念祝典」を開催しました。
又この日、記念事業として進められてきた学習院柔道百二十年史が刊行し、出席者に披露されました。
学習院柔道は、明治一五年(一八八二)嘉納治五郎師範が学習院高等科教師に就任し、講道館を創設した翌明治一六年(一八八三)に院内に柔道場が完成すると同時に柔道が学校の正科として日本で初めて採用されることにより始まりました。以来今年で一二三年目を迎える学校柔道としては日本最古の歴史をもっています。
師範は教育者としての理念、情熱、能力を初代立花種恭院長、二代目谷干城院長に高く評価され教育実務を任されていました。師範は柔道を通じて人格品性に重きをおき、かつ人間としての平等の精神を学ばせたと考えられます。師範の「よい教育をしてよい人間を学校から送り出す」という教育理念により誕生した学習院柔道は学校柔道としての特徴をもち、いまなお色濃く残しています。
出席者は学習院柔道の黎明期から戦後復活の歴史をあらためて知りその重みを強く実感しました。
学校教育の正科の中から誕生した学習院柔道部は、学校柔道の特徴を持ち現在も残しています。戦後も高等科柔道部は高等科OBの応援によりいち早く復活し、大学柔道部にもその伝統が引き継がれました。従って柔道部には運動部にありがちな上級生が下級生に対して無為に威張るという悪しき伝統はありません。同じ畳で修業する仲間として互いに認め合い切磋琢磨する学習院柔道の特徴はこうした長い学校柔道の伝統とOBの支えにより培われてきたものだと知り感動しました。

学習院柔道百二十年史 「今作らねば、その機会はなくなってしまう」
学習院柔道百二十年史編纂は、当時、学習院院長を務めておられた島津久厚柔桜会名誉会長の一言で平成一三年から始まりました。学習院柔道百二十年史は、学習院柔道百十五年の歩みの編纂を含めれば七年、その編纂だけでも五年余の歳月をかけ、織部編纂委員長始め編纂委員の努力によりようやく刊行しました。明治・大正・昭和・平成に亘る一二〇年の長い歴史の散逸する資料や貴重な文献・関係者の方々のお話を求め東奔西走し、幾度となく編纂会議が開かれました。亡くなられた先輩方も多く、貴重なお話も聞けず、もっと早く始めたらと残念な思いが多くありましたがぎりぎりの時間の中で完成することができました。
学習院柔道百二十年史は学習院の柔道史であるとともに、日本の柔道史にとっても黎明期の柔道と学校柔道の歴史を伝える貴重な一冊となったと思います。

ゴルフ部創立50周年パーティー2002

50年の歴史を刻んだコルフ部の仲間たちの集い  ゴルフ部創立50周年記念
平成14年7月1日、東京のホテルオークラ別館で学習院大学ゴルフ部の創立50周年記念パ-ティーが催された。常陸宮殿下・妃殿下がご臨席になられたこともあってか、OB・OG・来賓・学生合わせて約300名もの方々が参加した。
会は学習院大学ゴルフ部OB会会長の重宗信正氏(昭33政)の挨拶で始まった。今回の50周年を祝うとともに、「100周年に向けてがんばりましょう」という力強い言葉も飛び出した。島津学習院長のお祝いの言葉、来賓の関東学生ゴルフ連盟会長の松本富夫氏の乾杯に続きパーティーが始まった。パーティーの席では学習院出身のハワイアンバンド「ドゥリーミーアイランドアス」の演奏とハワイアンダンスが彩りを添えた。
会の途中では、現役の男子ゴルフ部の、飯田嘉友主将によるプロジェクターを利用した「学習院大学ゴルフ部のあゆみと現役活動報告」や、抽選会などがあった。ゴルフ部の歴史を語る場面では創立当時の写真や、大会の時の写真などが映し出され、皆さん、じっと画面に見入っていた。また抽選会では、賞品のパターが常陸宮殿下に当たるという一幕も。
20時30分、ゴルフ部OB会幹事長の大野了一氏(昭47政)の中締めの言葉で楽しいひとときは散会となった。
また、桜友会のゴルフ大会にも毎回、常陸宮両殿下がご臨席になるが、これも学習院大学ゴルフ部OB会の協力によるものである。

創部50周年を視野に入れて
学習院大学ゴルフ部OB会会長
重宗信正(昭33政)
● 創部者、安田 弘先輩の命でOB会会長を引き継ぎ2期目になります。安田前会長の代には、大学側のご理解とOB各位の熱意と協力でOB・現役待望のゴルフ練習場が学内に完成しました。そして、ゴルフ部も平成14年(2002年)には創部50周年を迎えます。OB会の活動も年々充実し、現役への支援費の増額、男子中・高等科ゴルフ部の強化、女子中・高等科のゴルフ部創部支援等、精一杯、次世代を担う若者へのメッセージを企画し、実行していきたいと思います。皆様のご理解とご協力をよろしくお願いいたします。

学習院大学ゴルフ部OB会名誉会長
安田 弘(昭31経)
● 私たちが学習院で初めてゴルフ同好会をつくったのが、昭和27年です。当時は中村寅吉と小野光一がカナダカップに優勝し活躍していたゴルフブームがはじまった時で、10名の同好会員でスタートしました。当時としては珍しく、女性も2名おりました。ただその時は、全く資金も、肝心のクラブもないといった状況で、多くの方の好意やメンバーの知恵と苦労で資金を集めて練習ネットなどを買い、今の百周年記念会館のあたりで活動していました。当時を思い出すと、本当に苦しかったけれど楽しい時期でした。

学習院大学サッカー部(桜蹴会)


●第3日曜日はサッカー
毎月、第3日曜日は、中高第一グランドで、サッカーを楽しんでいます。若い卒業生から、60才過ぎの大先輩まで、皆でボールを蹴っています。
是非、いらして、昔を思い出して下さい。
昨年は、大学サッカー部創部50周年ということで、記念パーティ、記念試合を行ないました。51年目の今年から、新たな歴史を刻んで参ります。卒業生の皆様、何かとご協力願います。
・桜蹴会のホームページを開設しました。 http://www.gfc-ob.jp/

●一丸となって部の強化を目指す

桜蹴会会長
尾関精一 (昭46済)

学習院大学輔仁会サッカー部は、今年50周年を迎えました。この50年の間に、当サッカー部はいろいろと変遷をしてきました。
昭和30年代、大学スポーツ興隆の流れの中、強豪と呼ばれる大学と互角に渡り合った時期もありました。次第に大学の数も増え、またレベルの格差も広がり、我がサッカー部は束京都1部リーグ、そして2部リーグへと・・・。
一時、関東リーグへの昇格も果たしましたが、その後、また東京都3部まで降格という憂き目にも遭いました。
現在は曲がりなりにも、東京都1部に残留し、5シーズン目を迎えようとしています。
その間、400名余りの卒業生がサッカー部を巣立ち、後輩の指導や、シニアチームのメンバーとして、今でもサッカーに関わるOBは大勢います。
特に、甲南大学との定期戦にはOB同士の試合も行い、和気藹々の中にも、お互いに結構勝負にこだわり、皆いつも以上に頑張ってしまいます。
現役の強化としては、他大学のようなセレクション制度などを導入できない現状の中で初、中、高等科を含めたオール学習院サッカー部の強化に努めて行くことがこれからの桜蹴会の課題であると感じております。

●学習院サッカーを受け継ぐ者たちが取り組む姿勢はただ一つ。時代年代は違っても、変わらないのは「ベストを尽くす」こと。
学習院でのサッカーサークルの胎動は、戦後間もない昭和24年。新制大学が発足した年。サッカー部の前身である「サッカー同好会」設立の申請が村田經和氏(昭29独専)を中心に学校当局になされ認可。翌25年から部員が集まり、同好会としての活動が開始された。
昭和26年には、第2回目を迎えた「四大学運動競技大会」で、サッカーが正式種目に。学習院もプレイし、運動部セレクションでない学校では、一番の強さを誇った。
2年に及ぶ同好会時代に確実に実績をあげたサッカー同好会は、昭和27年に「学習院大学輔仁会サッカー部」として活動を開始。初代部長に、豊崎光衛教授が就任し、一貫したサッカー理論を流布した。現代に脈々と受け継がれる学習院サッカーの土台が固まった。
昭和28年、部としては初めての対外試合である「第1回全日本学生選手権大会」に参加。翌29年には「関東大学蹴球リーグ5部」に加盟し、部として本格的の活動を開始した。新規加盟後、サッカー部は怒涛の3年連続リーグ優勝。一気に3部昇格を果たした。3部に昇格後、昭和37年まで毎年ブロック優勝を成し遂げたサッカー部。この時期が、第1期の黄金時代であった。
昭和38年になると、関東のリーグ制が改変され7部制に。学習院は国士舘、順天堂、青山学院など強豪ひしめく第3部に残った。そして昭和43年に再びリーグ制が改変され、東都リーグ1部に加盟。関東大会に優勝するも、関東2部の入替戦で上智に惜敗。昇格は実現しなかった。
49~54年にかけては、東都2部に降格し、苦難の時期であったが、チーム強化が図られ、55年に7年ぶりの1部リーグ復帰。昭和60年にはリーグ優勝を果たした。そして、関東大会2位で入替戦に進出。慶應を2-1で下し、悲願の関東2部リーグ入りを成し遂げたのである。会場の西ヶ丘サッカー場には多くのOBが応援に駆けつけ、勝利の喜びを味わった。
2年にわたって関東2部で健闘したが、再び東都1部降格。創部40周年の平成4年には、13年ぶりに東都2部に降格してしまった。ところが、これで終わらなかった。
平成9年には東都2部リーグで、黒星なしの優勝をし、見事1部に復帰した。一進一退を繰り返しつつ、現役部員たちは活躍している。
サッカー部のOB会「桜蹴会」では、毎月第3日曜の昼間、中高グラウンドに有志で集まりサッカーを楽しんでいる。現役の合宿には若いOBも参加し、胸を貸す。また、甲南や成蹊とOB戦も行っている。
折しも今年は日韓共催でサッカー・ワールドカップが開催され、全国的にサッカー・フィーバーに沸いた。 各地のどの試合会場も大いに盛り上がり、サッカー文化が日本にも根付いたのではないだろうか。
学習院大学輔仁会サッカー部も今年、創部50周年を迎え、記念の催事が計画されている。今後とも初・中・高・大の一貫の取り組みで学習院のサッカーの伝統を継承し、活躍することを期待したい。「全体のレベルが上がった」とOBも認めるサッカー部。上位リーグを目指して、学習院の選手たちがベストプレイを繰り広げてくれるのが楽しみだ。

昭和33年3月、サッカー部員で記念撮影。ピラ校が建っているところは当時グラウンドだった

昭和62年4月5日の関東大学春季対抗戦にて

観光事業研究部創部50周年記念大会 2003

観光事業研究部は昭和28年、観光事業研究会として、故山田明夫氏(昭32政)を中心に20名弱のメンバーでスタートした。そして平成15年、600名近くのOB・OGを輩出しながら、50周年を迎えることとなった。その観光事業研究部創立50周年記念大会が平成15年10月4日、学習院創立百周年記念会館小講堂で開かれた。
実行委員長山本義幸氏(昭50政)の開会の辞に続き、児玉茂幸OB・OG会長(昭39経)の挨拶で会は始まった。児玉会長は部の歴史を振り返りながら、諸先輩方への感謝を述べた後、「この会を新たな観光事業研究部のスタートとしたい」と締めくくった。
来賓として田島義博学習院長、草刈廣桜友会副会長(昭31政)がそれぞれの旅の思い出を交えた挨拶をした後、永田良昭学習院大学長(昭29高)の乾杯で歓談がスタートした。
会の途中、年次別の集合写真が撮影され、中にはいい感じでお酒が入り、顔を真っ赤にしながら写真に収まっている方もちらほらと見られた。
写真撮影に続いて、余興のビンゴゲームが行われ、もともと遊び好きの皆さん、急に真剣な顔になり、手元のカードと司会者と、交互ににらめっこしていた。1等賞品は観研らしく箱根富士屋ホテルのペア宿泊券で、夫婦揃って観研OB・OGの方に当たった。
また小講堂入口脇には、会報誌「目白丘」のバックナンバーがずらりと展示され、皆さん懐かしそうに見入っていた。「あ、これ私が書いたの」とか、中には「この”目白丘”の名前は僕が付けたんだよ」という方もいて、それぞれの思い出を語り合っていた。
会も終わりに近づき、菅原豊OB・OG会代表世話人(昭38経)の「次回もまた、皆さん元気にお会いしましょう」との言葉と、参加者の大きな拍手で会は締められた。
今回、遠くは北海道、九州からの参加者も含め、OB・OG・現役、130名以上の方が集まった。

オブリージ「oblige」Winter No.40 2003.11.25より
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経済学部渡部ゼミ  第24回「福太郎会」開催

2019年1月20日、渡部福太郎教授のゼミ同窓会「福太郎会」が、今年も東天紅東京国際フォーラム店にて開催されました。平成7年1月のファイナル講義以降毎年行われており、平成最後の今年「第24回」となりました。
先生は94歳となられますが、とてもお元気で、『不安増大の世界政治、対立激化の世界経済ー2019年各国の自国第一主義政策の行方が分かる年となるかー』のテーマで大学講義並の90分授業でした。参加者は皆真剣に聞き入っていました。
その後の懇親会では、先生が各テーブルを廻られ、各人の近況報告や思い出話など花が咲きました。
来年は新元号のもと記念すべき第25回目を2020年1月19日に予定しています。
是非皆さん参加してください。
会長 増渕茂麿(昭36経)
幹事 宮崎鼎三(昭40経)
t-miyazaki333@mist.ocn.ne.jp

井上寿一ゼミ創立30周年記念OBOG会 開催/2019

法学部政治学科 日本政治外交史演習 井上寿一ゼミ創立30周年記念OBOG会
平成31(2019)年1月12日(土)、井上寿一ゼミの創立30周年記念OBOG会をハイアットリージェンシー東京で開催しました。久々の出席者も多く、遠く四国や沖縄、中にはロンドンから駆けつけたOBOGもいて、現役生含め合計111名が出席。目白キャンパスでともに過ごした仲間同士、在学当時のエピソードで大いに盛り上がり、旧交を温めました。中には話し足りず、五次会まで流れたツワモノもいたとか。
井上先生からは、30年間の思い出や近況のほか、学長のお立場から学習院大学の近年の話題についても紹介があり、母校の活躍には大きな歓声があがりました。
会は今後も毎年開催を続け、交流を深めていきます。
連絡先:次回事務局・廣畑 淳也(平19政)
irohatah@gmail.com

「馬術部の健闘を祝う会2018」開催のご報告

平成30(2018)年12月21日(金)  平成30年1年間の「馬術部の健闘を祝う会」をホテルメッツ目白にて開催致しました。
年末のお忙しい中、江崎博文学習院常務理事・東園基政桜友会会長・高等科馬術部顧問の徳田茂子先生の御出席を賜り、内藤政武院長から大きな祝花を頂戴しました。
会場に駆けつけた桜鞍会会員40名と現役学生32名が集合、笑顔溢れる会となりました。
冒頭 勝田会長より今回の馬術部の快挙を称え、監督・コーチに対して感謝の言葉と前の週に交代した福光新主将以下現役に対する激励の挨拶がありました。
その後安田前主将より平成30年の馬術部の活動報告と試合結果をスライドを使って、
【第 53 回関東学生賞典馬場馬術競技大会】 団体三位(この結果により全日本出場決定)
【第 61 回全日本学生賞典馬場馬術競技大会】
16年振りの団体三位   安田利実(4年)、佐々木意織(4年)、木村優希(4年)
個人決勝   木村優希 第4位。安田利実 第9位
【第 54 回全日本学生馬術女子選手権大会】  28年振りの優勝   安田利実(4年)
の快挙を報告。また、下級生選手も参加した対青山学院。対慶應大学。対甲南大学との対抗戦も勝利を収めたとの報告が在り、OBOGは久し振りの美酒を味わいました。
明るい報告に沸く会場では、80代OBと10代・20代の部員が和気藹々と談笑する光景を始めとしてあちらこちらで明るい笑顔が弾けていました。

また桜鞍会事務局で日本馬術連盟副会長嘉納寛治氏からサプライズ報告で、木村優希選手が日馬連のプログレス ジュニアティームのメンバーに選ばれた事が報告されました。安田利実選手は既に選ばれておりますので、馬術部から2名選ばれたことになります。

桜鞍会から今年度の活躍に対し馬術部と瀬理町技術顧問に馬具一式と御礼が贈られました。瀬理町技術顧問からは全日本の説明前に、まず試合に出場した選手ではなく裏方で支えてくれた部員達に対する熱い感謝の言葉があり、その後、全日本団体戦での出場順を決めるところから始まっている作戦のお話し等興味深い解説を伺いました。
最後に福光新主将のリードで院歌斉唱、エールで締めくくり、来期の活躍を期待し、今後も桜鞍会としても応援していくことを確認し、閉会となりました。

江崎学習院常務理事

東園桜友会会長

桜鞍会勝田会長

桃谷樓銀座三越店 訪問 (丑寅会)

平成31(2019)年1月9日、畑中利久君(昭和43高・47経済卒)が銀座三越11階に昨年末開店した「桃谷樓銀座三越店」を訪問しました。素敵な奥様もご一緒です。
「化学調味料を一切使わず、天然塩・有機大豆醤油など厳選した自然の調味料だけを使用し、素材が持つ滋味を活かした伝統の技」と謳うだけあって、薄味で上品な味でした。お薦めのお店です。


左から、E組・小川高司、D組・善利秀臣、E組・山崎晶三、A組・田辺実・大西利一、E組・島村徹、C組・畑中利久
右手前から、A組・沼田彰史、D組・坂本光一・藤田壮太郎、畑中令夫人