ソフトボール部の歩み

齋藤滋雄部長の退官を祝う会

平成17年2月26日、学習院大学ソフトボール部の部長兼監督として40数年にわたってご指導いただいた齋藤滋雄教授の定年退職を記念する会が目白で催された。男・女ソフトボール部OB会を中心に現役部員をまじえた記念の会で、午前中は大学北グラウンドでの現役対OB戦、午後は百周年記念会館小講堂での200名を集めた「退官を祝う会」と、終日をかけた盛大なものとなった。
学習院大学のソフトボール部は、まさに齋藤先生とともに歩んできた部である。順天堂大学を卒業した先生が学習院大学の助手として奉職したのが昭和32 年。同36年に任意団体のソフトボールクラブを創設、部長兼監督に就任する。翌37年には日本ソフトボール協会、東京都ソフトボール協会に登録、愛好会に昇格。同42年の同好会昇格を経て、同49年に正式に体育会運動部となる。同55年からは女子ソフトボールクラブの部長兼監督も兼任し、同58年には女子も体育会運動部となった。
この間、助教授となった昭和42年10月には、埼玉で行われた第22回国体秋季大会に出場し優勝を果たしている。この年は名選手が多く、7月の全日本大学ソフトボール選手権、8月の全日本男子ソフトボール選手権でも準優勝を勝ち取った。

昭和52年には教授となるが、ソフトボールへの情熱は今日に至るまで衰え知らずで、ソフトボール界での役職も、平成17年2月現在、東京都ソフトボール協会常任参与、東京都大学ソフトボール連盟会長、関東大学ソフトボール連盟会長、東日本大学ソフトボール連盟会長、全日本大学ソフトボール連盟副会長、といった具合だ。
多くの学生に慕われ、学習院大学での職責を全うした熱血指導の名物教授、齋藤先生に、今、感謝の気持ちを伝えたい。平成17年1月18日には最終講義も行われた。

雪桜会の歩み

オーストリア陸軍少佐との氷上の出会い。
その偶然が日本の、そして学習院の スキーの歴史の偉大な一歩となった!

学習院の学生がスキーを始めたのは、はるか明治44年(1911)12月まで遡る。当時来日中だったオーストリア陸軍のテ オドール・フォン・レルヒ少佐が長野県の塩尻峠から諏訪へと下った折に、諏訪湖で学習院の学生たちに出会った。彼らはその時は「スキー」ではなく「スケー ト」を楽しんでいた。レルヒ少佐は、その輪の中に入り、彼らとしばしスケートを楽しんだという。この偶然ともいうべきレルヒ少佐との出会いで、翌年1月5 日に二荒芳徳、三島弥彦(日本人で初めてオリンピックに出場した陸上の選手)、相馬正胤、三井高公、戸田安定、有馬行郎の各氏が、レルヒ少佐から直接ス キーの手ほどきを受けることになった。これが学習院のスキーの始まりであり、日本に初めてスキーがもたらされた瞬間であった。
大正6年(1917)には、新潟県の関温泉でスキーの一般合宿(初心者指導のための合宿)が開始され、2年後には、山岳部とスキー部から成る「学習院輔 仁会旅行部」が誕生した。旅行部が創設されてからは、新設の山岳部とスキー部を統括し、夏は登山、冬はスキーが行われるようになった。山岳部では、25日 間に及ぶ「カムチャッカ旅行」をはじめ、15日間の「シベリア旅行」などを、一方、スキー部では、「関温泉スキー合宿」が行われ、47名もの学生が参加し た。その後も活動は順調に続けられ、大正13年(1924)に旅行部から「山岳部」へと改称。この後、スキーは山岳部の活動の一つとして行われるようにな る。
この合宿には、歴代の院長もたびたび訪れている。大正14年の合宿に は、第14代の福原鐐二郎院長がかんじきを履いて訪問。土産に「カステラ」持参し、スキーを試乗したという記録が残っている。
その後も山岳部によってこのスキー合宿は続けられたが、日本が太平洋戦争に突入したことに伴い、活動の中断を余儀なくされた。終戦後の数年は食糧事情の 悪化で合宿ができなかったが、昭和24年冬、有志により再び「関スキー合宿」が復活する。翌年12月には山岳部の主催で再びスキー合宿を再開。学習院のス キーに対する情熱を強く感じる。
昭和32年になると、山岳部の中から、活動をスキーにしぼった「スキー部」の設立を目指す部員が現れた。部内外から部員を募り、10名程度が集まった。 そして翌年、「スキーくらぶ」が誕生。これが学習院大学スキー部の始まりである。
当初は男性部員が多かったが、女性部員も次第に増加。昭和34年に「スキークラブ」とすべてカタカナの名称に変更し、40年まで続いた。そして41年に は同好会に昇格して「スキー同好会」と名称変更。部員数もかなり多くなり、スキー部の黄金時代を迎えた。わずか4年後の45年にはついに部に昇格、「ス キー部」となり、現在に至っている。
スキー部は現在、「ノルディック班」「アルペン班」「一般班」の3班体制で活動。一方、OB・OGは「雪桜会」の会員として、後輩たちの支援にあたって いる。
今ではウィンタースポーツとして当たり前の存在になっているスキー。その歴史は、学習院スキー史と学習院スキー部史に重なるといっても過言ではないの だ。

柔桜会の歩み

嘉納治五郎師範の辞令。明治19年に学習院の教授兼教頭になった時のもの

学習院の柔道の歴史は、講道館の創設と同時期に始まった。講道館柔道の創設者・嘉納治五郎師範が政治学・理財学の講師として、明治15 年(1882)1月に学習院に奉職。翌16年4月、院内に柔道場が完成し、学校が柔道を日本で初めて正科(正規の学科)として採用した。中等科以上の希望者を対象に、師範自ら指導を行ったのである。
当時、華族会館の附属施設であった学習院は、その生徒の大半が華族の子弟であったため、危険が伴う柔道に対しては、父兄の否定的な意見が多かった。しかし、嘉納師範の柔道に寄せる情熱を初代の立花院長や谷第2代院長が理解し、いわば反対を押し切る形で柔道が行われた。

柔道部の創部については、正確な記録が残っていない。だが、明治31年の「輔仁会雑誌」に、初めて「柔道部」の名称が使用され、記述されていることから、この頃が創部と考えられる。
学校では、武道の一つとして明治21年に「柔道修業生徒規則」が定められ、放課後に同好の学生によって稽古が行われていたが、同41年になると、中等科 3・4年の一部の学生に毎週1回、武課正科として課されるようになった。大正11年に柔道、剣道、弓術、馬術は正科外武課として、それぞれ「部」と称することが認められるようになった。
最初の対外試合は、明治24年の第一高等中学校柔道大会への出場だ。以後、講道館や北辰館などの選手と試合をしてきたが、学習院では他校より早く柔道が行われていたため、大半の選手が勝利する圧倒的な強さを誇っていた。いずれにしろ、当時は武道の正科として柔道大会が学校行事で開催され、院内学生同士の試合のほか、他校学生との対外試合が行われており、今日の部活動の趣とは異なっていたのである。
昭和18年、輔仁会所属の「部」となったが、昭和20年の終戦とともに、武道授業の禁止と正科外の学校における部活動の禁止が通達されたため、62年の歴史を持つ柔道部は廃部になった。柔道部にも戦死されたOBがいたことを記しておきたい。
昭和25年、GHQの許可が出て、学校の柔道が復活。昭和27年に新制高等科が「柔道同好会」、大学が「体育研究会柔道部」を結成し、目白警察の道場を借りて稽古を開始した。この後、学校側から放課後のみ使用するとの条件付きで教室(旧道場)の使用許可が下り、OBから畳30畳の援助もあって、院内で稽古ができるようになった。
さらに、昭和29年に高等科、翌30年に大学がそれぞれ「部」に昇格し、新制中等科にも昭和40年に「柔道同好会」が発足、同42年に「部」に昇格した。
さて、OB会「柔桜会」の発足は、昭和28年のこと。翌29年には第1回総会を霞会館で開催し、今では会員約400名を有する大所帯になった。毎年6月に定例総会を行っているほか、忘年会や寒稽古、オール学習院の集いで現役との交流試合など、活発な活動を行っている。
平成15年、学習院柔道は120年、柔桜会は50周年という記念の年を迎える。創始者の嘉納師範が残した「努むれば必ず達す」の教えは、今でも多くの OB、現役の心に深く刻まれているのである。

昭和9年頃の学習院中・高等科柔道部。2列目の右から7番目に写っているのは島津久厚院長(当時中等科4年)

昭和35年1月15日に旧道場で行われた寒稽古。左上の書は嘉納治五郎師範直筆のもの

 

落語研究会の歩み

柳家小さん師匠の心意気を受け継ぐ酒落の効いた研究会

 昭和32年春、歌舞伎を中心に活動していた国劇部からの暖簾分けにより、気品と優雅を歌舞伎と共有する落語研究会が誕生しました。亭号は目白亭と恋勢家。
 発足当初は先々代・雷門助六師匠に師事していましたが昭和36年に、目白にお住まいというご縁もあり、人間国宝・故柳家小さん師匠を顧問としてお招きいたしました。当時は小さん師匠自ら、乃木館または師匠宅の道場で学生に稽古をつけておられました。また、ご存命中は私どもが主催する落語会への特別出演をお願いしてまいりました。落語について直接の指南役は以後、柳家小三治師匠、柳家つば女師匠、柳家小はん師匠へと受け継がれ、現在は柳家小団治師匠に、落語、太鼓など諸事にわたりご指導を仰いでいます。
 落研主催の落語会は「めじろ寄席」と銘打って学内においては大学祭を中心に、その他輔仁会館などにて日頃の稽古の成果を披露しています。学外では、春夏休暇期間中、「巡業」と称し、合宿を兼ねて全国の老人ホーム、公民館などを慰問しています。6月と11月には近年は主として池袋・豊島区民センターにてホール落語の形式で「めじろ寄席」を開催しています。顧問の柳家小団治師匠、そして当研究会OBである柳家喜多八師匠(平成4年真打昇進。柳家小三治門下)が小さん師匠に代わり、特別出演を務めております。
 元来、男性優位のクラブでしたが女子部員が独学で「寄席文字」を習得し、更に小団治師匠のお取り計らいにより、「下座(三味線)」については植田久子師匠、金近弘子師匠にご指導を賜ることとなり、高座でお囃子を披露する「お囃子教室」は落語と並ぶ落研の看板となっています。落語にも挑戦し女子部員は活動のフィールドを広げました。演芸、音響、印刷物と全て自前で運営できる体制となり、落研専用のホールを目白に建設すれば劇団四季と肩を並べるところまでこぎつけています。
 創立45周年を迎えた落語研究会OB会は会員数約200名。40周年記念行事として会報「暫」の発行。本年5月には45周年記念興行としてOBのみで番組を構成する「OBめじろ寄席」を豊島区民センターで開催しました。また、オール学習院の集いにおける懇親会、ゴルフコンペなどで親睦を図っています。おおよそ規約マニュアルの類が性に合わない、ほどほどの曖昧さを信条とする連中ですが、会員を募り、口も出すが金も出すOB会として学生をバックアップしています。素人ですが芸名については襲名の制度があり伝統を承継する為の潤滑剤となっています。長谷川一夫、三船敏郎の時代、おしゃべりな男は敬遠されがちでしたが、今や駄酒落の一つも言えないと合コンの参加資格も得られない世相です。しかしながら内輪受けに走らず真摯に落語に取り組む姿勢は、小さん師匠の「心よこしま成る者は高座に上がるべからず」の心得に一歩でも近づこうとする表われです。


平成10年11月の落語研究会創立40周年記念パーティーでの集合写真。
この日は柳家小さん師匠も出席した。

史蹟研究会OB会の歩み

 史蹟研究会は昭和39年度、鉄道研究会から分かれて発足した。当時の鉄道研究会の活動は史蹟や観光地を回ることも多かったという。そこでそのような史蹟巡りに興味を持った何名かが集まり、法学部の熊坂武雄氏(昭41法)を委員長として史蹟愛好会が作られた。当時から、史学部が別にあったが、少し難し過ぎるのと、もう一つ別の理由で史蹟愛好会を作ったという。
そのもう一つの理由を、史蹟愛好会の設立者の1人である辻阪昭浩氏(昭41法)に聞くと、当時の鉄道研究会は男性ばかりで女性がまったくいなかったという。そこで何人かのメンバーが、女性とも話をしてみたい、ということで、もう少し観光的な史蹟愛好会を作ることになったという。辻阪氏によれば、「真面目20%、不純80%のスタート」ということになる。ところが、その当初の目的が当たり、後に4組の夫婦が誕生した。
発足時のメンバーは12~13名で、男性は法学部と経済学部、女性は文学部が多かった。
鉄道研究会から分かれたとはいっても、まだ、兼部しているメンバーも多く、場合によっては鉄道研究会と合同で活動をすることもあった。
また、現在まで続く土曜史蹟や夏合宿、春合宿、学祭での発表などは、この発足時からのものである。
このような歴史をたどり、一昨年、平成12年に史蹟研究会は「史蹟研究会設立35周年記念総会」を開催した。この時は多くの方々が集まり、400名強のOB・OGのうち、100名以上が参加したというから驚異的な出席率だ。
史蹟研究会のOB・OG会は「あすかまほろば会」という名称で、6月に年1回、総会と、OB・OG・現役の交歓会が開かれる。この時にOB・OGから現役に様々なものが寄付されるそうで、今活動で使っているパソコンもそのようにして寄付されたものである。この総会・交歓会は、5年に一度、大規模な会を開き例年以上のOB・OGが一堂に会する。その一つが前述の35周年記念総会だ。
ここで現役の活動にも目を向けてみたい。ほとんど設立当初の活動を引き継いでいる。まずは土曜史蹟と呼ばれる、毎月第2土曜の都内の史蹟巡りがあり、4月は浅草、6月は鎌倉が恒例となっている。この土曜史蹟には都合をつけて参加するOBの方もいるという。そして夏と春に、それぞれ合宿が行われ、夏合宿の調査の成果を11月の大学祭で発表する。今年の夏合宿は山陽で、大学祭の発表も姫路城や毛利元就などを中心とした山陽に焦点をあてたものだった。
現在のメンバーは11月の大学祭で引退した3年生を含めて20名弱。全盛期には総勢50~60人いたというから、残念ながらずいぶんとメンバーは減っている。そこで現在の史蹟研究会について3年生で前委員長の平達矢氏に話を聞くと、「歴史の好きな人には旅の楽しみも知ってもらいたい。旅の好きな人には歴史にも興味を持ってもらいたい。今は歴史好きと旅好きがお互いにいい意味で刺激し合っています」と、心強い言葉が戻ってきた。
アットホームな雰囲気のわりには真面目、真面目なわりにはアットホームな雰囲気の漂うサークルが史蹟研究会である。


平成12年、史蹟研究会設立35周年の時の一枚


土曜史蹟恒例の「鎌倉ツアー」。鎌倉最古の寺「杉本寺」の前で


平成5年の部室の様子。ここが史蹟研究会の活動拠点。

映画研究部の歩み

映画鑑賞から映画制作へ! 若者たちの夢と熱意を写し込んだ16mmのミクロな世界

 現在では当たり前のように見ているテレビ放送。国内で始まったのは、昭和28年のことである。それまでの娯楽の主流は「映画」。学習院の学生にとっても例外ではなかった。
学習院大学映画研究部の始まりは、昭和22年6月。「国劇研究会」と同時に「映画文化研究会」の名称で誕生した。映画好きな学生が集まって、映画研究をはじめたのである。
創設当時は同好会であったが、部員が増え、昭和23年4月に「映画研究部」に昇格した。最盛期には大学と短大合わせて130人の部員が在籍。活動の中心は新作映画について互いに意見を論じ合う月2回の「合評会」だった。
当時、映画会社では新作映画の試写会が毎日のように行われ、半分以上は無料で入場できた。部員たちは映画会社を回って、試写会の入場券獲得に奔走したという。
また、余裕のあるときは有料の映画館に足を運んで鑑賞することもあった。学食のカレーが30円だった時代、映画館の入場料は30~150円。決して安くない有料の映画には、そう頻繁には行けなかった。
当時の映画のジャンルは、ドラマやバラエティ、ミュージカルをはじめニュース、文化・教育映画など実に多彩。どの部員も週平均7本鑑賞し、合評会に備えた。そして合評会では、評論家顔負けの迫力で熱弁をふるっていた。
そんな折、自分たちの映画を作りたいという欲求が生まれてきた。だが、お金もカメラも、フィルムもない。そこで、OBの協力を募ったり、赤坂プリンスホテルなどでダンスパーティを催したりして、制作資金を蓄えていった。
撮影に使用したのは16mmフィルム。映画は、ニュース制作会社にカメラを借りて撮影した。また、映像につける音声は後で録音する「アフレコ」であった。スタジオが空いている真夜中に缶詰になり、夜を徹しての録音作業。2日間くらい徹夜して作業を進めた。
日本大学芸術学部よりも映画制作が早かった学習院では、昭和25年頃から2年に1回ペースで映画制作が行われたが、昭和34年から年1本ペースで作られた。この頃になると、他大学との交流も活発化。他大学との合評会も行われた。
学習院は四大学映画連盟に加入していたが、慶應、法政、明治、立教、早稲田からなる「都下大学学生映画連盟」への加入は長年の夢であった。この連盟が10周年を迎えた昭和31年、晴れて仲間入りを果たした。学生映画祭も開催され、制作も盛んに行われるようになった。学習院初等科を1年間ロケして制作された「学習院初等科」、学生生活やマージャン風景などを綴った初めての劇映画「青春の谷間」、子供を主役にしたファンタジー「あこがれ」など、実にさまざまな作品が作られた。
さて、現在の映画研究部はというと、技術の進歩でデジタルカメラを使った撮影が主流になっている。俳優は、部員の友人や演劇部の学生に依頼。半年に1回、上映会を行っている。映画を鑑賞する集いが、評論へ、そして制作へと変化してきた映画研究部。今日も部員たちは、カメラを手に新たなる映画の可能性を求めて、どこかに出没しているに違いない。


映画研究部発行の映画評論誌「マアゼ」
 
昭和34年の映画研究部自主映画「木立の影」制作ドキュメント

 学習院大学映画研究部が、制作活動の初期からこだわりつづけてきた16mmフィルムの映画。第1作目の「学習院大学文化祭」(昭和27年)から数えて6作目が、昭和34年に制作された「木立の影」だ。時間にして38分の長編劇映画は、足掛け2年をかけた大作であった。
この映画は、原爆症の恐怖によってのどかな生活を破られていく学生の姿を描いた作品。昭和33年7月に開かれたシナリオ選考会議では、部員から12篇のシナリオが出されたが、なんとすべて不採用。翌年の2月まで持ち越しとなり、篠原壮太郎氏(昭35経)のシナリオ「白と黒のたわむれ」が採用された。しかしそのシナリオも6回書き直しが行われ、「木立の影」のシナリオがようやく完成したのである。
役柄には外部の俳優も配し、3月4日にクランクインした。主なロケ地は四谷や世田谷で、連日9時30分~16時30分の7時間に及ぶ撮影が続けられた。約1ヵ月後にクランクアップ。撮影終了時には、予定のフィルム巻数をはるかに超えるほど、情熱を注ぎきった作品であった。
撮影が終わると、次に待っているのが作品をうまくつなぎ合わせる編集作業である。編集作業は部員の家を互いに行き来して行われた。費やした作業日数は延べ10日。そして、ようやく録音の作業に移った。
4月17~22日の6日間、アサヒスタジオで行われたこの作業は、連日徹夜。作業終了時には、全員がグロッキー気味であった。この力作は、第4回全日本学生映画祭に出品されている。

ボールルームダンスクラブの歩み

 「ボールルームダンスクラブ」が誕生したのは平成7年6月。学習院大学「社交舞踏研究会」の協力を得て、初舞踏会を開催したのがその始まりです。桜友会からは畑中茸雄常務理事(昭38化)、梶本孝雄元理事(昭32済)、右川清夫元評議員(昭34済)にご出席いただき、大変充実したスタートとなりました。また、これと並行して「合同練習舞踏会」を始め、現在「OB・OG月例練習会」として、プロ現役の競技選手などをコーチャーに招き、毎月第1日曜(原則)に開催しています。
発足当初より協調関係にある社交舞踏研究会は、部として競技ダンスは行っていませんでした(当時の日本学生競技ダンス連盟に不参加)。しかし、近藤誉仁(平9済)・及川珠里(平9心)という実力あるペアが出現し、アマチュアの世界でめきめき力をつけました。平成8年「全日本ラテンダンス選手権」アマの部で総合4位に入賞し、翌年にはアマ・ラテンA級、モダンB級。卒業後はプロに転向し、現在JBDFプロ・モダンB級、ラテンC級として大活躍。当クラブのコーチャーもお願いしています。
クラブの方向に大きな影響を与えたのは、「目賀田ダンスの会」代表幹事の目賀田匡夫氏(昭36物)との出会いでした。「桜友会報」で当クラブの活動を知った同会の高橋蔦子さん(昭33国)に目賀田氏をご紹介いただいたのです。
ボールルームダンスはイングリッシュスタイルのダンスですが、「目賀田ダンス」は、勝海舟の孫・目賀田綱美男爵がフランス留学中に習得したフレンチスタイルのダンスです。目賀田男爵は、当時流行していたアルゼンチン・タンゴも習得し、帰国後、日本でご教授になりました。日本に初めてアルゼンチン・タンゴを紹介したのは、ほかならぬ目賀田男爵なのです。
その後、社交舞踏研究会の近藤・及川組の卒業時期が近づいたため、二人のお祝いも兼ね、舞踏会を計画。平成9年2月、赤坂のカナダ大使館ビルに併設されているシティクラブ・オブ・東京の「メイプルルーム」で第1回「早春舞踏会」を開催しました。以降、早春舞踏会は毎年1月か2月に開催し、現在は南麻布の「マーゴホール」で行っています。
また、千葉県船橋学園東葉高等学校の古賀加奈子さん(昭37済)のご好意で、同校「エンデバーホール」をお借りし「東葉舞踏会」をスタート。毎月第3金曜の18~21時までで、1~11月までは「東葉月例舞踏会」として、アトラクションやデモンストレーションのある舞踏会を行っています。
平成13年12月の東葉舞踏会のプロデモでは、社交舞踏研究会出身の宮入寛子さん(平12政)が新しい感性あふれる可憐なダンスを披露。大学卒業後に進学した宮入さんは、ダンスへの思いが絶ち難くプロに転向し、現在JDCプロ・スタンダード(モダン)C級、ラテンD級に昇級しています。
文/相賀柏雄(昭33政)

正續会(坐禅部)の歩み

何かを求めた青年たちが集まり、
そしてその求めるものを見つける手段を見つけ出した。それが坐禅だった。
今もその真摯な意志が脈々と受け継がれる。

 坐禅部の前身は昭和22年4月に発足した「仏教研究会」だ。発足時のメンバーは越部平八郎氏(昭23旧高)、和波英郎氏(昭24旧高)、佐藤蕃氏(昭24旧高)、野坂二郎氏(昭27政)の4名だった。
研究会発足以前から、勉強会のようなものはあったが、仏教研究会という名称を使ったのはこの時からだという。このことを越部氏は{正續十六号」の中で「私たちの時代はシーキング・エイジで、何かを求めているときですから、”私は仏教徒だ”とか”私はキリスト教徒だ”とかいうようなことは、はっきりしていなかったのです。だから何かを求めていたことは確かだけれども、自分がそこできちっと決まって、これしかない、唯一無二だと思ったことはないのです」と語っている。つまり、初めに仏教ありきではなく、初めにあったのはメンバーが求めている「何か」であった。その中で、メンバーの求めているものに最も近いものが仏教であった。
研究会としての活動は、知識習得を主とする勉強会・輪読会を開く部門と、実践的な坐禅を行う部門に分かれて活動をしていた。会員はどちらかに属するというわけではなく、両方の部門で併行して活動し、仏教研究を行っていた。仏教研究会は昭和23年4月に正式に「仏教研究部」として輔仁会文化部の一つとなった。
最初、坐禅は学内にその場所がなく、鎌倉の円覚寺や谷中の天龍院まで足を運んでいた。そして、発足から2年後の昭和24年、正門脇の元院長舎宅の裏手にあった6畳ほどの炭小屋を利用して坐禅道場が作られた。翌25年5月17日には、研究会発足以前から指導を受けていた円覚寺の朝比奈宗源老師を招き道場の開単式が行われた。この時、朝比奈老師から、現在までその名を残す「正續会」の名と、それを揮毫した額が渡された。同時に安倍能成院長により道場は「無着堂」と名付けられた。昭和29年になると仏教研究部は、朝比奈老師より授けられた「正續会」を正式名称とし、学内では「坐禅部」の名称を使用することになる。
このように順調に活動を続けていた坐禅部だが、同年11月21日に無着堂が火事により焼失してしまった。その年は結局そのまま年を越し、翌30年3月末になってようやく再建に着手することができた。新しく部長になった筧泰彦教授を中心に再建は順調に進み、1ヵ月後の4月29日には新「無着堂」の開単式が行われた。それを追うように部室である「悟覚堂」の建設も始められ、雨漏りの問題などがあったものの、同年5月16日に完成した。無着堂の再建では、筧教授の家族も総出で実作業から休息場の提供まで協力し、部員たちの大きな力となった。その無着堂も昨年、平成12年に開単50周年を迎え、4月29日に無着堂開単五十周年記念式が開かれた。残念ながらこの50周年を迎える直前の平成12年1月11日に、無着堂再建に尽力した筧泰彦元教授は91歳で亡くなっている。
現在の坐禅部は部員約20名。毎週火曜には無着堂で坐禅会を開いている。また学祭では歴代、お茶を日本に伝えた栄西禅師にちなみお茶を出している。その時には部員が育てた芋を使った芋ようかんをふるまうなど坐禅部ならではのサービスが提供されている。


昭和38年の無着堂の増築完成式。
前列左から3人目は安倍能成院長。4人目は朝比奈宗源老師

写真部OB会の歩み

創部当時、皆が真剣に磨いたという撮影技術。
部の伝統として残る物事への真撃な姿勢が、人の心をとらえてやまない作品を創り出す。

 今でこそカラーは当たり前になった写真の世界。しかし昭和20年代は、モノクロ全盛の時代であった。
学習院大学写真部が誕生したのは昭和24年。旧制高等科にはすでに写真部があったため、大学発足と同時に大学1・2年生として入学した旧高等科生がその活動を続けることで、活動がはじまった。
発足当初の部員は、近藤不二(昭27哲)、水田義直、野口欣弥、田村保夫、尾上清(ともに昭27政)、高橋正明(昭28物)、中村純一(昭28化)の各氏であった。また、初代部長には吉田早苗先生を迎え、部室は本館(現在の西1号館)3階の準備室を使っていた。
最初の部室は廊下からドア1枚の小部屋で、水場もなく、現像作業にとても不便。そこで昭和27年、同じ西1号館の地下1階に部室を移した。水場と独立した暗室がある部室であったが、現像液を貯蔵するためのプラスチックの瓶もなかったため、当時はウイスキーやビールの瓶に現像液を蓄えていたという。
昭和25年になると、学習院女子短期大学が開校し、短大写真部が誕生した。同年の11月には、小田急線沿線の柿生にて短大生をモデルに大学・短大合同撮影会を行い、翌年には大学・短大写真部合同の新入生歓迎コンパも開いて、交流の輪を着実に広げていった。
以後写真部の活動の幅も広がり、昭和30年からは、甲南大学と「交歓展」を関東と関西で交互に開催。翌31年からはプロの写真家である牧田仁氏から指導を受け、撮影合宿もはじまった。
そして昭和32年、学習院写真部の黄金時代が始まることになる。「全日本学生写真コンクール」で共同制作作品が優秀校賞に選ばれたのだ。木曾馬の産地として知られる「木曾開田村」をテーマに合宿撮影した組写真「木曾馬の話」がそれで、最優秀学校賞を受賞。以後、「観光地・日光」「風土病-日本住血吸虫病」「変わりゆく漁村-岩手県下閉伊郡」「この大地の隅から-京葉工業地帯」といった作品が高い評価を得て、5年連続最優秀学校賞を受賞するという栄誉を勝ち取った。それらの貴重な作品は、昭和38年に出版された「共同制作 五ヵ年の歩み」で見ることができる。
写真部からはプロカメラマンも数多く輩出しているが、中でも小谷明氏(昭31政)や齋藤煕吉氏(昭34済)は有名である。また、映画・ビデオの分野でも海外で受賞をしたOB・OGの評価は高い。
OB会活動も活発だ。昭和52年に初代部長の吉田先生の定年退職を祝して開かれた「ぴんぼけ総会」は、その後毎年のように開催され、懇親の輪を広げている。ちなみに「ぴんぼけ」の名前は、民放ラジオで流れていたさくらフィルムのコマーシャルソングにちなんでいる。
近年では、毎年4月に開かれる「オール学習院の集い」で写真展を開催し、OB・OGの作品を展示しているほか、日光の光徳小屋での撮影会も行われている。
創部から半世紀。ファインダーを通して、その時代時代の真の姿をとらえる部の伝統は、いまも立派に受け継がれている。温かな雰囲気の中で、OBと現役との親交も今後ますます育まれていくことだろう。


昭和26年7月の写真部新入生歓迎コンパ(西1号館屋上で撮影)

国劇部桜友会の歩み

 江戸時代、出雲大社の巫女阿国が京都で演じた「念仏踊」が発祥といわれる歌舞伎。日本の伝統芸能の集大成である歌舞伎の同好グループを学習院にも作ってみよう。歌舞伎好きな数人の学生のそうした思いが実り、昭和22年6月、「学習院国劇研究会」は生まれた。
敗戦後ということもあり、西洋文化の優遇色が濃く、日本古来の文化に対しては、封建的で悪いという風潮が世の中に広がっていた。そのため、結成当初は「若いのに変なやつらだ」という目で見られることも多かったという。
結成当時の学内では、歌舞伎を上演することなどはまったく考えられなかった。そこで、歌舞伎の研究を主眼に置いて活動がはじめられた。
メンバーの獲得も大切なことであった。研究会としたからには、芝居の話ができる人を集めねばならない。そのため、すでに入会していたメンバーが創会の告知をガリ版刷りで作り、各教室に張り出した。当初はあまり集まらないと考えられていたのだが、10数人が集まり、そのなかには、作家の吉村昭氏(昭24高・大学中退)なども含まれていた。
メンバーも決まり、学校側に「部」への昇格申請を行ったが却下。すでに演劇部が創部されていたため、同じような部があるのはおかしいという学校側の考えであった。
そうした中、活動は続けられ、翌23年6月に四谷の初等科で記念すべき第1回公演が行われた。演目は「番町皿屋敷」。資金のあてがなかったため、なるべくお金が掛からない演目をと選ばれた。本番では芝居が一時ストップしたりもしたが、なんとか初めての公演は終了。以後、毎年のように「忠臣蔵」や「三人吉三」などの公演を重ねていった。そうした活動が学校側にも認められ、晴れて「国劇部」へと昇格した。
また、青山学院大や東大など他校との合同歌舞伎も実現。国劇部は学習院の名物として現在もその歴史を刻み続けている。
国劇部には、現在も歌舞伎界で活躍しているOBやOGが数多い。創設者の小山觀翁氏をはじめ、坂東彦三郎夫人の坂東生子氏(昭48国)、市川団十郎夫人の堀越希実子氏(昭51仏)、新歌舞伎座の松本清氏(昭54独)、歌舞伎俳優の市川新次氏(昭55哲)、新橋演舞場支配人の武中雅人氏(昭55史)、松竹の岩下雅夫氏(平4法)、原祐道氏(平9日)など、錚々たる人物が名を連ねる。
国劇部が50周年を迎えた平成9年9月、国立小劇場で「創立50周年記念公演」が行われた。演目は「助六」「伊勢音頭」「一条大蔵譚」「弁慶上使」の4演日。OBと現役部員による公演は、立見が出るほどの大盛会であった。
また近年は、生涯学習の発展にも積極的だ。平成10年度から学習院生涯学習センターの公開講座開設にも協力し、「江戸文化・古典芸能」をテーマに全10講座を受け持った。観世会部や落語研究会と共同で行ったこれらの講座は、好評を博した。
創設当初に掲げられた「日本文化の伝承」という使命。それは、いまもOBや現役学生の心の中に息づいている。日本文化への関心が高まりつつあるいま、国劇部の存在意義は今後もますます高まっていくことだろう。