文化部」カテゴリーアーカイブ

軽音楽部の歩み

 大学では、毎年5月下旬頃「目白音楽祭」が行われる。音楽部や世界民謡研究会など、学内の音系サークルが日替わりで演奏を繰り広げる祭典だ。創立33年の「軽音楽部」は、いまや常連の団体である。
部の起こりは昭和43年。当時、学内には個人的なバンドがいくつかあった。その中で、鈴木時男氏(昭46済)と鈴木民生氏(昭47済)のフォークのバンド「The etc」と稲田拓夫氏(昭47政)のカントリー&ウェスタンのバンド「Blueglass Cut Ups」が集い、「軽音楽愛好会」を創設した。
創設時のメンバーは11名。部室もなく、輔仁会館や西1号館などで練習を行っていた。愛好会としての初めての演奏会は、昭和43年の院祭で開かれたピラ校でのライブである。
「The etc」は、カレッジバンドとして東芝からレコードをリリースしたほどの腕前。44年8月には、長野県飯田市で「レコード発表会」を開催した。部で主催した初の対外コンサートでもあり、前出の2バンドのほか、木村純氏(昭49法)と杉野有喜雄氏(昭49法) のバンド「Blue Tigers」、ゲストとして跡見学園女子大のハワイアンバンドが演奏した。昼夜2回の公演は大成功を収めたのである。この頃、部にはセミプロのようなプレイヤーが多数在籍し、ダンスホールなどで演奏のバイトも行っていた。
それまで、合宿は各バンドごとに行われていたが、木村氏が同好会長を務めた47年には、初めて全体合宿を茨城県高萩市で実施した。参加したバンド11組は、フォーク、ボサノバ、ロックなどジャンルはさまざま。しかし、どのバンドもハイレベルな演奏を繰り広げていたので、会員たちはジャンルを超えて互いの演奏を尊重し、切磋琢磨したという。
ハードロックが全盛を迎えた49年、「軽音楽同好会」に昇格、初代顧問には田中靖政先生が就任した(田中先生には感謝です。とOB談)。大学公認の団体として、輔仁会館2階の練習場と助成金が与えられるようになった。その助成金を使い、新宿の安田生命ホールでリサイタルを開催。日本ビクターから歌手としてすでにデビューしていた現桜友会常務理事の松尾薫氏(昭53政)参加のバンドも加わり、演奏会は毎回盛況を極めた。
音楽を愛するプレイヤーたちのスピリットは代々受け継がれ、いまでは「軽音楽部」として活動をしている。現役部員は、現在約50名。輔仁会館に部専用のスタジオがあり、恵まれた環境の中で音楽活動できるようになった。毎年4月には、ピラ校で「新歓ライブ」が開かれるほか、8月には1年生主体の定期演奏会、また11月の大学祭では生演奏が自慢の「ライブ喫茶」も開店し、多くの人に音楽の感動と興奮を与えている。
OB総数約350名を数えるまでになった軽音楽部。創設者の鈴木氏は「よくここまで続いてくれました」と本当にうれしそうに語ってくれた。

昭和45年11月に日仏会館にて開かれた「学習院大学軽音楽フェスティバル」

六本木のノチェーロで開かれた懇親会には多数の方々が参加

音楽部の歩み

大正十一年夏。学習院輔仁会音楽部は産声を上げた。以前から学習院には個人的にクラシック音楽を演奏する人が多く、日本のオーケストラの父といわれる近衛秀麿氏をはじめ、京極高鋭や有坂愛彦(ともに音楽評論家)、山田一雄、前田幸市郎、岩城宏之、福田一雄各氏等の一流音楽家を輩出してきた。 音楽部は輔仁会雑誌編集部から分かれて独立。だが大正末期は硬派が盛んな時代であったため、音楽を奏でる部など軟弱だと独立には反対する意見も多かった。やっとのことで独立するが、大正天皇の崩御により活動を一時中断。昭和二年に活動を再開すると軍艦マーチの作曲者、瀬戸口藤吉氏は当時日本楽壇の第一人者で、交響曲などを演奏できるまでに音楽部を成長させた。 昭和六年ごろ、音楽部は戦前の黄金時代を迎える。瀬戸口氏に代わって、新交響楽団(現NHK交響楽団)の弦・管楽器奏者、棚池慶助氏を指導者として迎えたからである。特訓を積み重ね、新交響楽団と練習をしたりして、音楽部の名は広く知られるまでになった。 戦時中も演奏が絶えることはなかった。激しい空襲で楽譜を失ったが、貴重な楽器は部員や門衛の人達によって救われた。そのため、音楽部は戦後にいち早く復活する。 昭和二十四年、大学ができると大学の音楽部に混声、男声、女声の合唱団を編成。また、女子短大が設置されると短大(現女子大)女声合唱団ができ、コーラスが隆盛を極めた。一方、初等科には合唱部とオーケストラが誕生し、中・高等科にも有志によりオーケストラが結成されるに及んで、各団とも精力的な活動を始めたわけである。 学習院が創立百一年を迎えた昭和五十三年。音楽部はテレビ朝日の「オーケストラがやってきた」の番組出演した。音を愛するプレイヤーたちは、今後も聴衆に感動や興奮を送り続けることだろう。

桜美会(美術部)の歩み


学習院大学名誉教授で元美術部長・林友春先生の言葉を借用させていただきます。
「学習院は戦後一般に開放されましたが、ややもすればその教育目的が明確を欠くようになったと思われます。しかし学習院にとっては、旧学習院のその日本的伝統文化の香りと、明治以降の新しい文化創造への率先開発という学習院本来の精神を再認識し、世界文化の発展に貢献するのが、最も相応しい教育目的であると考えられます。中でも、かつて日本に西洋美術・音楽・文芸を招来し、日本文化発展の先駆をなした白樺派の人達の功績を継承する学習院輔仁会の美術部は、音楽部と共に、全学の文化活動の中心となって、一人学習院のみならず、日本の文化発展に努力してきたことは、忘れてはならないことと思います。この美術部は、浩宮皇太子殿下が学習院幼稚園に入園され、絵を発表されたのを契機に、以来しばしばオール学習院美術展を開催してきました」
林先生のお言葉のようにわが美術部は、日本的伝統文化の香りを基調に、明治以降の新しい文化創造への一翼を担ってきたという自負があります。今年制作した「学習院美術部卒業生名簿」から諸先輩の御名を挙げてみますと、錚々たる人物がアトリエにて絵を描いていたのが分かります。大正15年高等科卒の故入江相政氏、昭和2年高等科卒の故徳川義寛氏、故鍋島直康氏などの方々の御名が見えます。そして昭和20年代過ぎに、現在の様相になって参りました。
今回発刊された美術部卒業生の名簿には、1100名の名が載っています。指導者は、戦中から戦後にかけて、故富永惣一先生(元国立西洋美術館長)、洋画の故岡常次、日本画の今田直策の両先生、さらに昭和20年代からは故石川滋彦先生(新制作協会)、故是永伸一先生、故新木正之介先生、林友春先生などの方々がおいでになり、故石川先生は毎週土曜日に絵の批評会でご指導され、会が終了すると先生の奏でるアコーディオンに合わせ、屋上でホウキダンスなどをしました。
夏の合宿は、志賀高原の丸池ロッジや石の湯山荘等々で開催し、1週間の合宿中に描いた力作の批評会と合宿最後の晩の納会での寸劇がよき思い出です。帰りの夜行列車の中で、眠らずに将来の思いを語り明かしたことが走馬燈のように思い出されます。当時の大学美術部の展覧会は、秋の大学祭とオール学習院展が主要でした。特に都内の有名デパートで開催されたオール学習院展は幼稚園から大学、短大、教職員と関係者一同の発表会になりました。外部団体・企業の方々達と交渉したり、OBの著名な先生方(武者小路実篤氏ほか多数の方々)の絵を借用したり、会場も採算の合わない点も特別なお取計らいでご協力をいただき、無料でいろいろとご配慮いただきましたことに感謝しながら、社会勉強をさせていただきました。どんな展覧会でも出品される作品だけでなく、裏方の絵の飾り付けや配置などにも各人の人間性が表れ、興味深いものです。
今後も現役学生と桜美会とが協力し、学習院の文化活動の発展に役立ちたいと思っております。

 文/渡辺伊佐保(昭43済)


昭和41年に行われた輔仁会美術部の夏合宿

観光事業研究部の歩み

昭和28年、第二次世界大戦の苦しみから、漸く立ち直り、平和な時代の到来が告げられようとしていた。そして学習院大学でも、その平和の象徴ともいえる旅と観光に目を向けた学生たちがいた。

 昭和28年、学習院高等科の卒業を目前にした、鉄道と旅を愛好する学生たちが、大学での「同好会」結成のために準備を始めた。そして同年4月、大学進学と同時に学習院観光事業研究会(GTB)を設立する。設立時は女子部からの進学者や、外部からの入学者と合わせて20名弱の会員であった。
その後、会員が急増し、資金も会費だけでは賄いきれなくなり、運営費を捻出するための企画を立てることになる。当時はダンスパーティーが流行し、多くの部やサークルは、そのパーティーで運営資金を集めていた。観光事業研究会も様々な案を考えたが、当たり前ではつまらないと日帰りバスツアーを企画し、学内だけではなく外部(主に目白周辺の学生)にも呼びかけた。これは、バスを一台借りきって行うもので、初めは危険という理由で許可が下りなかったという。それでも、何度も学校との交渉を重ね、承認を得て、伊豆方面への第一回の観光事業研究会主催の日帰りバスツアーが開催された。このツアーは好評を博し、以来、毎年春秋の2度のバスツアーは恒例となっていった。後に同じく観光事業を研究する、早稲田大学観光学会、慶応大学観光事業研究会、立教大学ホテル研究会などもこのバスツアーを参考に、同様の企画を実施していった。
また、創設後初めての文化祭(院祭)では、観光相談所の設置や当時の最新型観光バスの展示・試乗会などを行った。


昭和29年院祭で、右端が山田明夫初代委員長

 このほかにも、修学旅行の添乗業務の実習を、当時は合併によりできたばかりの近畿日本ツーリストの協力で行ったりした。
昭和31年当時、観光に関する講義がカリキュラムに加えられていたのは立教大学だけで、そのほかは研究会が、先に挙げた早稲田大学、慶応大学と日本女子大学、大妻女子大学にあるだけだった。これらの大学ではどこも運営費の問題で頭を痛めていた。そこでバスツアーや様々な企画の情報交換などを頻繁にするようになり、次第に連盟結成の動きとなっていった。そして昭和31年夏、皇居前のパレスホテルで結成式を行い「全日本学生観光連盟」がこの6校により結成された。これとほぼ時を同じくして、観光事業研究会は部に昇格し、観光事業研究部となった。
会創設後、47年を経た現在、現役の部員たちは先輩たちの築き上げた基礎を大切に守りながら、さらに時代の変化に適応しながら活動している。今、活動のメインとなっているのが大学祭での研究発表と、毎年恒例の冬のスキーツアーである。
学祭での研究発表は発足当時から続いている。まさに観光事業研究部の柱である。毎年夏休みに各調査地で調査合宿を行い、大学祭でその成果を発表する。そして、その成果を調査報告書の形でまとめている。内容はデータ・分析ともに非常に充実しており、極めて優れたものになっている。
冬のスキーツアーも昨年は蔵王、一昨年は苗場と、学外の方も交えて大盛況のうちに開催された。ほかに、山手線一周や沼津での合宿など、1年を通して多くのイベントがある。研究と遊びを両立させながら成果を残していく、観光事業研究部はまさに部活動の本道を歩み続けている。

ハワイアン桜友会「第7回アイランド・サウンド・フェスティバル」2010開催報告

ハワイアン桜友会では、平成22年3月6日(土)に、学習院創立百周年記念会館大ホールに500名を超える観客を集めて、チャリティコンサートを開催した。
H5N1型のインフルエンザ到来に備えて、ワクチン備蓄を計画する社団法人新型インフルエンザ対策協議会と、子供を事故で亡くした両親をサポートするNPO団体「とうきょう・はっぴーくらぶ」を支援することを目的に、およそ二年半ぶりの開催となった。
コンサートはニュース東京を発行する、都政新聞 株式会社の後援を受け、本学出身のハワイアン・ミュージシャン「鴻池 薫とハワイアン・ソウル・フレンズ」と「ハング・ルース」の二つのバンドが競演するコンサートに、六つのフラ教室の参加を得て、80名を超える踊り手が様々なハワイアンを披露する、賑やかな催しとなった。
およそ十年間に及ぶハワイアン桜友会の歴史に残る、盛大なコンサートに、観客は生憎の雨交じりの冷たい土曜日ながらも、ヒーリング・ミュージックとして、近年ファンを増やしているハワイアンを心から堪能していただけた様子。
今後も同様なコンサートを定期的に開催したいと、事務局では早くも次回の計画作りに入ったとか。出来れば現役の学生諸君のフラ、演奏に門戸を開放する会合にしたいと意気込んでいる。
OB、OG諸子も含め、参加を求められる方は、気軽に下記事務局にご連絡をいただきたいと呼びかけている。
ハワイアン桜友会 事務局
〒162-0041 東京都新宿区早稲田鶴巻町308-3-101
株式会社ウィザード・アール・ディ・アイ 内
平田 邦彦 宛

カントリー桜友会

設立総会&設立記念パーティー開催 (イベントホール「NOBILDUCA」港区六本木にて)

平成21(2009)年6月12日現在の会員数=80名のところ、52名が参加、議事委任数が11名で総会は成立しました。
開会に先立ち、発起人を代表して田中英雄さん(S36政卒)が設立の目的として「日本のカントリー会の創世期から沢山の学習院OBが活躍されており、その伝統を伝えてゆきたい」また、「現在も幅広いカントリーミュージックの愛好者がOB・OGの中に存在するのでその親睦をはかっていきたい」と設立の目的と経過を説明しました。又会員数80名と、予想を超える会員数に感謝の意を表しました。
引き続き設立総会は、事務局の野間信彦(S45政)の進行で、発足の経緯説明、会役員の選任、会則の承認、今後の活動計画が承認され、温かい拍手に包まれて総会を終了しました。
設立記念パーティーは、まず、大和田孝桜友会副委員長から、「カントリーミュージックは若いころみなが親しんだ音楽で、活躍されたOBも多く、今後の活動に期待する」との謝辞をいただき、続いて当会の名誉会長である井原高忠さん(S21高)の挨拶、来賓の、カントリー成城会会長の岡本様より祝辞と乾杯のご発生をいただきました。
そしてしばしの歓談、お食事タイムののち、19:20頃から昭和50年前後卒業メンバーによるブルーグラスバンド「OLD SALTS」の演奏を行いました。曲目は「Will meet again sweet heart」「When you kneel at mother’s grave」など12曲。12日の演奏に合わせて、年代の別れたピックアップメンバーが2回ほど練習しただけにしては、なかなか気のあったアンサンブルを奏で、会場から拍手と声援を集めていました。
ライブ演奏の2番手として、カントリー桜友会会長率いるGUN FIGHTERSが登場。このバンドは他校卒業生も参加している混成バンドで、昔懐かしいカントリーの名曲を中心に多くのレパートリーを持っています。会員で会計事務局の磯野美樹さん(平成14法卒)、野間信彦(昭和45政治)の歌のほか、川原三郎さん(昭和43経済)、水上立英さん(昭和50経済)白井雅昭さん(昭和48年経済)などがゲスト歌手で参加し、幅広い年代の会員によるライヴステージを行いました。
会場内でも、カントリーミュージックを話題に、年代を超えた親睦が図られ、曲の蘊蓄を語りあったり、名刺を交換したり和気あいあいとした雰囲気の中で、あっという間に終了時間を迎えてしまいました。今後は、このような親睦の輪をさらに広げ、深めて行こうと思っています。できれば、いろんな年代で構成されたバンドを編成し、例会や研究会が出来ればうれしいと思っています。

カントリー桜友会事務局 野間信彦

速桜会(速記研究会)懇親会開催2009

速記研究会のOB、OGの有志が久し振りに平成21(2009)年4月19日(日)「オール学習院の集い」に合わせて集まり、目白の学習院大学西1号館小教室で懇親会を開催しました。
今回の目玉は速記研の「宝物」で創設当時の安倍能成学習院長直筆揮毫による「学習院大学輔仁会速記研究会」の表札と当時からの速研写真アルバムでした。それらを教室に運び参加者各自が持ち寄った速研会報や懐かしい写真を見ながらみんな当時の学生気分に戻って時間の経つのも忘れて大いに盛り上がりました。現役速研委員長も出席し、現在の部室にも案内してもらって交流を深めました。夕方まで学食前のテラスで懇談、そのあと有志で目白近くの店で遅くまでワインを傾けました。

第8回放研シニア春秋会2009

第8回放研シニア春秋会(学習院創立百周年記念会館・2009年4月25日)
新緑の風薫る4月25日、初めて我々の母校である「学習院創立百周年記念会館」において第8回放研シニア春秋会が開催されました。当日はあいにくの雨でしたが大きく変貌したキャンパスにただ驚くばかりでした。あのピラミット校舎は・・・?この辺に我々の部室が在ったなア・・・・。数十年振りに母校を訪れた先輩たちからこんな呟きが聞こえてきました。
送られてくる桜友会報でも盛んに「母校を訪ねてみよう!」「もっと学習院をPRしよう!」というキャッチフレーズが目につきます。桜友会の役員を担務しておられる山本会長のご挨拶の中でも「この不景気の中で学生達の就職率は今年もトップで他大学と比較しても群を抜いているが、しかし受験生の合格者が他の有名校にいってしまうケースも増えている」と懸念しておりました。
昨年、この会でご挨拶をして頂いた桜友会内藤会長のお話の中でピラミット校舎の跡地には中央教育研究棟が完成し、その最上階に桜友会のラウンジもつくられる、とのことでした。最近の話ですと完成は平成22年春、あと1年後です。放研シニア春秋会の会員130名の皆さん!大きく変貌しつつある目白キャンパスを一度、訪ねてみては如何でしょうか。私たちが青春時代を過ごし、身をもって知っている母校・学習院の素晴しさを再認識することでしょう。
(記 千葉S41年卒)

【旧サイトの「放研シニア春秋会」はコチラをクリックしてください】
https://www.gakushuin-ouyukai.jp/obog/broadcasting.htm

第7回放研シニア春秋会2008

第7回放研シニア春秋会(メルパルク東京・2008年4月20日)
遅咲きの八重桜が満開の4月20日、芝公園の「メルパルク東京」で第7回放研シニア春秋会が開催されました。 S32年卒の大先輩から今年還暦を迎えた45年卒まで33名が参加しました。
高橋勝彦さん(41年卒)の司会で山本時雄会長(33年卒)のご挨拶、そして今回初めて桜友会からご臨席頂いた内藤頼誼会長のご挨拶と乾杯で幕が開きました。
山本会長のご挨拶の中で放研に入部された昭和29年頃はラジオが主流であり、クラブの名前も「放送劇研究部」だったとのこと。そして多くのマスコミ関係者を輩出した話を伺い、改めて放研の歴史と伝統の重さを感じました。
内藤会長のご挨拶では、学習院の現状や桜友会の活動等について大変貴重なお話を聞かせて頂きました。あの懐かしいピラミッド校舎が取り壊され、あとには高層の中央教育研究棟が建って、桜友会も使えるラウンジがつくられるそうです。久しぶりに目白キャンパスに足を運んで「わが母校」の変わりゆく風景を見に行かれてはいかがでしょうか。
今回は還暦を迎えられて初参加の飯田さん(旧姓尾崎)と櫻田さん(旧姓石原 共に45年卒)、そして今年が始めてという先輩、後輩も多数参加して頂きました。学生時代と変わらない笑顔がとても印象的でした。 皆さん! 懐かしく嬉しい再会をありがとうございました。
次回はさらに盛会となるよう皆様方のご参加をお待ちしております。 (記 成瀬S42卒)