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ホッケー部の歩み

平成十一年秋の関東女子大学リーグ戦十月十七日対成城大学戦において、学習院大学女子ホッケーチームは4対0で圧勝し、一 部リーグ第三位を確保しました。しかも二位東京農業大学とは勝ちを惜しいところで逃して引き分けているので、実力的には二位に等しいと言えます。チームを 結成以来、たった四年目の快挙でした。関東大学リーグは四部まであるので、価値ある一部三位です。ホッケー界でも噂があちこちに広まりました。学習院強 し、と。
平成十一年十一月十三日ホッケー部は創立七十年を迎えて、記念式典を目白で行いました。島津院長、賀陽桜友会会長始め学習院、ホッケー関係者多数参会の もと行われましたが、女子ホッケーのこの強さは、永いOB活動の積み重ねが大きな要素になっていると思います。よく言われることは、ホッケー部はOBの活 動が盛んだから、「良い」と。
学習院と学生との絆、愛校心は学生生活を終了して社会人となっても何処までも、延々と続きます。ホッケー部卒業生は社会に出てからも、学習院を思い、目 白を思い、現役学生のリーグ戦の戦績を心配し日々を送っています。ホッケー部卒業生の団結は学生の部活動を強力に支えているのです。

昭和四年ホッケー部結成

学習院ホッケー部ほ今を遡ること七十二年前にこの目自の地に産声をあげました。活動を始めたのは昭和四年であり、正式に輔 仁会に認められたのは昭和六年になります。学習院高等科の軍事教練教官に戸山学校から榊原大尉が赴任され、続いて遠山少佐が見え、着任早々「武課」の時間 にホッケーの試合が取り入れられました。これは両先生とも戸山学校の有名なホッケー選手だったことに由来します。両先生はゴール、スティック、ボールを揃 えて武課の授業のみならず休み時間放課後にスティックを弄れるようにしてあったので、好きな連中がスティックを振り回し始めました。秋になると、チームが 編成出来るようになり、東京帝国大学ホッケー部長の井口常雄教授にコーチを願い、試合が出来そうな状態になってきました。

第一回インターハイ出場

昭和四年十二月、帝国大学ホッケー部の企画により、全国旧制高等学校にホッケー普及の目的で、第一回全国高等学校ホッケー 選手権大会が東京帝国大学御殿山グランドにおいて開催されました。参加校は六校で帝国大学連盟傘下の高等学校、すなわち学習院高等科、台北高等学校、第三 高等学校、成城高等学校、浦和高等学校、北大予科。
学習院最初の公式戦出場メンバーは次の通りです。
主将 北大路信忠  (五年卒)
富永 鉄夫
鈴木 甫   (五年卒)
蒲生 郷信  (五年卒)
山口 定男  (五年卒)
大村 清   (五年卒)
坪井 忠郎  (七年卒)
赤松 照彦  (五年卒)
高木 正順  (八年卒)
松平 精   (五年卒)
渋谷 在正  (九年卒)
野球部、ボート部、剣道部の応援メンバー混合チームでしたので、試合も第三高等学校に0対5で敗れました。その後プロパー部員が入部して、正式な学習院 ホッケー部が成立し、昭和六年に輔仁曾への入会が認められました。

第一期隆盛期到来

スティックを弄ぶ連中が集まって来ただけあって、成果はどんどん挙がって来ました。昭和六年第三回全日本高等学校ホッケー 選手権大会(以下インターハイ)優勝、昭和七年八年九年関東高等学校リーグ三年連続優勝、昭和八年九年インターハイに連続優勝と、創部五年にして数々の優 勝杯を獲得しました。当然名選手が続出し、この時の学習院ホッケーの技術が後々まで引き継がれ、今日の繁栄があると考えられます。その時代の主要メンバー は次の通りです。
周布公兼、副島種典、中村路一、佐藤譲、山田義元、渋谷在正、渋沢言忠、小笠原清信、有地次郎、六所五郎、北大路信勇、北大路信義、有地熊蔵、今城政 典。今なお有地次郎は健在で、学生のリーグ戦を応援のためグランドに顔を出します。
その後昭和十二年、十三年、十四年と関東リーグ二部(この当時は大学高校混合)で連続優勝し十五年には台湾へ初めて遠征試合を行いました。創部以来十数 年で学習院の中で、ホッケ一部強し、と言う評価を揺るぎないものとしたのです。

第二期隆盛期(昭和二十三年から)

ホッケー部に黄金期が訪れました。第二次世界大戦も終わり、まだ東京が焼け野原になっていた頃、昭和二十一年には犬養康 彦、松平忠久が入部し二十二年には窪田裕一、黒川眞幸、佐野和夫、松平尚次郎、大島護久、緒方幸三、上田宗良等が入部して、OB伊東渉、浅田俊二、町尻量 光の援助、指導の下、その素質を生かして着々と力を付けて行きました。
そして昭和二十三年には国民体育大会関東予選決勝で慶応高校に1対0で勝ち、出場権を得て、福岡での本大会では決勝まで進み、惜しくも札幌商業高校に0 対3で敗れ二位となったのです。ここで学習院の名は全国に轟くこととなりました。その後学習院高等科は国体に昭和二十七年まで関東代表としての出場が続き ました。
学習院が新たに学習院大学となった昭和二十五年、関東大学ホッケーリーグ二部として初参加しましたが、早速五戦全勝優勝し、一部に昇格しました。
試合結果 対東京歯科大学 不戦勝
対一橋大学   8対0
対東京大学   10対0
対成城大学   12対2
対武蔵大学   10対1
中心的選手であった黒川、上田、松平忠久、窪田、緒方、佐野の卓越した技術を基に見事なパスワークと安定したバックスは絶賛を浴びたものでした。この年 の第一回四大学定期戦は楽勝でした。
対武蔵大学   10対0
対成城大学   11対0

ついに関東大学リーグ一部二位に

そしてこの強さは二十六年には更に上昇して、関東リーグ一部の二位にのし上がりました。
対慶応大学   2対0勝ち
対明治大学   0対3負け
対法政大学   6対1勝ち
対立教大学   5対2勝ち
対早稲田大学  3対2勝ち
この時の最強メンバーは次の通り
FW 本田春義  二年
FW 松平尚次郎 二年
FW 松平忠久  四年
FW 窪田裕一  三年
FW 金 時習  一年
HB 円谷一   二年
HB 黒川眞幸  二年
HB 緒方幸三  二年
FB 佐野和夫  三年
FB 上田宗良  三年
GK 小坂昇一郎 三年
この年日本代表チームがインドに一ケ月半遠征しましたが、この代表選手の中に黒川眞幸が選ばれました。
その後もホッケー部は関東学生リーグで一部で揺るぎない地位を保って、昭和三十年の全日本ホッケー選手権大会には準決勝に進みベスト4になったのです。

三十年代は潜伏期

三十三年から二部へ転落してからの十年間は一部との往復となりました。甲南大学との定期戟が始まりましたが、第一回は5対 0と圧勝したものの、四十三年にはどん底の三部に転落してしまいました。

潜伏期脱却して海外遠征始まる

この後飛田孝監督(三十八年卒)を迎えて一挙に三部からあっという間に一部に昇格しました。明治大学に教えを乞い、強化合 宿、韓国遠征等々新機軸を打ち出して良くチームをまとめたのです。この時から現在まで続いている海外遠征は四年毎に実行されていますが、これは在学中に必 ず海外遠征がある、と言う事により、優秀な部員獲得の機会が増えるなど、現在のホッケー部充実の基礎が固まったと言えましょう。
四十八年韓国遠征のメンバー。
団 長 飯坂良明教授(ホッケー部長)
監 督 飛田 孝
コーチ 深谷弘士 関谷 隆 桜井直己
主 将 池田幸雄
選 手 奥田道彦 野口 亨 山田 実
釈 洋一 横溝昌宏 野崎博典
長井広司 福本雅夫 亀田尚裕
小林 進 竹口友章 石井庸一 薦野 潔

高円宮殿下インターハイにご出場

高等科ホッケー部に高円宮殿下がご入部になりました。運動神経も良くメキメキと上手におなりになり、四十六年の徳島でのイ ンターハイに学習院は出場権を得て、殿下もライトハーフとして活躍されました。二回戦で御坊商業高校に4対2で逆転勝利しました。しかし三回戦では日本一 と言われる星光学院高校と対戦することとなり、0対7と大差で敗退しましたが、その後インターハイの出場枠が少なくなり、あまり出場出来ないでいます。殿 下のご出場は貴重な実績です。 また大学チームも今日の平成に至るまで一部と二部を往復してはいますが、レベルから見ると、この二十年間上位を保っている と言えます。

女子チーム誕生と大活躍

冒頭にも書いたように、現在女子ホッケーの活躍が見事です。平成六年の春、帰国子女の新一年生谷村康子以下が女子チームを 作りたいと言う強い意志のもとチーム結成に務めました。そして紆余曲折はありましたが、正式に学習院輔仁曾ホッケー部女子チームが誕生しました。二年目か らメンバーが揃い、早速関東大学ホッケーリーグ戦に参加しましたが、女子大学はホッケーブームで関東だけでも二十校を越えており、四部からのスタートとな りました。監督に就任した高田良太(六十二年卒)の巧みな指導のもと、気力充実、練習熱心、研究心旺盛のため、三部昇格、二部昇格を一気に果たし、あっと いう間に一部昇格を果たしました。平成十一年には二位と引き分けながら三位となり、ホッケー界で一躍有名になりました。平成十一年開催の東西対抗戦には代 表選手に大原知子、須磨映理子、翌年には荒木郁子の三名が選ばれる等、ホッケー部第三期の隆盛期が続いています。これらの原動力となったメンバーは次の通 り。
谷村康子、日月(たちもり)玲子、山本彩恵子、神武友子、河野真弓等々です。女子部員も四十名に増え、現役部員は男女大学高等科を含めて八十名。創部以来 の大人数で、その昔部員難で苦労した事が嘘のようです。しかしこれにはOBである桜杖会の活動が基盤となつているのです。

(社)日本ホッケー協会会長に 学習院卒業の上田宗良

OBになってからもホッケー界と関わりを持って活躍している者が数多くいます。その最も頂点は上田宗良(二十八年卒)で す。第二隆盛期でフルバックで活躍し、卒業後は日本開発銀行の業務の傍ら、国際ホッケー連盟の仕事にも専心し、オリンピックには絶えずホッケー役員として 運営に関わり、現在は(社)日本ホッケー協会会長、国際ホッケー連盟常務理事、アジアホッケー連盟副会長、(財)日本オリンピック委員会副会長を経て特別 顧問、また青森で開催される二〇〇三年冬季アジア競技大会組織委員会の副会長に青森県副知事と共に就任し、ホッケーを通じて世界のスポーツ振興に貢献して います。
その他には内藤政武(三十五年卒)が日本ホッケー協会理事、釈洋一(五十一年卒)が関東ホッケー連盟理事、飛田孝(三十八年卒)が大阪ホッケー協会副会 長、深谷弘士(四十一年卒)が東京ホッケー協会理事、濱口孝文(五十八年卒)が日本学生ホッケー連盟理事として現在活躍しています。過去にも中村光良(三 十四年卒)が日本社会人ホッケー連盟専務理事として実業団関係のホッケー隆盛に貢献するなど、ホッケースポーツ振興のために役立っているOBが数多く存在 するのも、他の運動部と違うところであり、特徴であると思います。

目白ホッケー祭り

年に二回目白のグランドで行われるホッケー祭りは、男女の現役OBが一三〇名近く集まって六人制ホッケーを楽しみます。二 〇チーム以上が競う会場は大変盛り上がりを見せ、ひと昔前では考えられない盛況ぶりです。
これも第一隆盛期から育まれた学習院ホッケー魂が連綿と引き継がれて今日に至って開花したと言えましょう。これからも更なる前進を目指す学習院輔仁曾 ホッケー部でありたいと考えています。

★以上 出典は、学習院広報 第64号 (平成13(2001)年7月15日発行)より
「ホッケー部の歩み」・・・執筆 内藤政武 氏 (PDFファイル79KB)

桜弓会(弓道部)

戦争で、中断を余儀なくされた弓道部。
戦後、部員たちの不屈の精神で蘇った奇跡の部は、新道場完成とともに創立80周年を迎えた

学習院で弓道が始まったのは、大正7年4月。中等科1・2年の授業「弓術正科」として行われたのが最初だ。弓道をはじめ、 剣道や柔道など「武道」が授業として行われる学校は、当時多くなかった。
翌年11月には正式な弓道場が造られ、弓道部が創設された。環境が整ったこともあり、活動は活発化。大正13年1月からは、弓道の寒稽古も始まってい る。
記録をみると、対外試合は大正14年1月の第一高等学校との試合が最初だ。記念すべき初試合は、大差で優勝。以後、戦績には「大勝」「優勝」「勝利」の 文字が多く見受けられる。授業としても弓道を行っていた学習院の面目躍如である。特に昭和8~16年は弓道部の黄金時代といわれ、72戦69勝。OBの津 軽承靖氏が連日のように道場を訪れ、コーチとして後輩たちを叱咤激励したという。
しかし戦争の影響で活動は縮小し、昭和20年の大空襲で弓道場を焼失。終戦後に出された文部省の通達で、弓道を含む学校武道が一切禁止され、弓道部は解 散を余儀なくされた。
その弓道部が昭和32年に再建に向けて始動する。大学の学生数名によって設立が発案され、2年後、「弓道部同好会」として活動を開始したのである。同 年、神奈川県湯河原にて初合宿を実施。以後、毎年のように春夏2回、合宿が行われるようになった。
新生弓道部の大きな悩みは練習場がないことであった。部員たちは大塚の区営弓道場まで出かけ、日々腕を磨いていた。しかし、学習院専用の弓道場ではない ため、順番が来るまで練習ができない。そこで、校内練習場の設立願書を学校側に提出、昭和35年6月に建設の許可が下りた。
建設地は、血洗の池そばの藪。当時の部員で櫻弓会会長の北村氏は、「ひどい藪でした。学校側との約束で木を切らないことになっていましたので、部員総出 で下草を刈り、整地しました。でも、なかなか平らにならなくて、スノコを敷いて足場を安定させました。大変でしたが、思いの染み込んだ道場でした」と語 る。
部員が一致団結した甲斐あって、1カ月後の7月には射場が完成。学内で練習に励める環境が整った。
翌々年の37年には、東京都学生弓道連盟に加盟。対外試合が活発化し、女子の部では一部に昇格するほどの活躍もあった。現在の部員は60余名。男女比は 4対6と女性のほうが多い。
その弓道部が昨年、創部80周年を迎えた。また、輔仁会館隣の旧弓道場跡地には新部室棟「富士見会館」が完成。新弓道場も館内に造られた。11月26日 には、創部80周年記念式典と新弓道場落成記念式典を併せて開催。来賓の島津学習院長や小倉学習院大学長、賀陽桜友会長をはじめ、100名近くの弓道部 OB・現役が集まり、晴れの門出を祝った。
OB会組織である櫻弓会の活動も活発だ。現役部員への経済的援助をはじめ、毎年4月にはオール学習院の集いへの参加、6月には櫻弓会総会、11月には大 学の弓道場で「射会」を開いている。現役との懇親の集いで、実技のほか現役部員による仮装大会も実施。OBが寄付した賞品がもらえるというのもユニーク だ。
弓道の基本である「礼」。「礼」を尽くす、その行動は現役のみならず、部を温かく見守るOBの間でも実践されているのである。

桜鎧会の歩み

創部50周年を迎えて

当部は、昭和28年に故内山寿朗初代会長、現飯田亮名誉会長を中心に同好会として創部致しました。日本で馴染みのないス ポーツでしたので、創部当時の先輩方は防具を揃えたり、部員を集めたりと大変ご苦労されたと思います。
昭和31年に関東学生アメリカンフットボール連盟に加入させて頂きました。当時の連盟は六大学中心で行われており、学習院は7番目に加入させて頂きまし た。連盟加入と同時に甲南大学との定期戦も開始。昭和43年には、12年間負け続けた甲南戦に勝利して、その年に同好会から部に昇格しました。
フットボールはメンタルな部分と格闘技が半々くらいに必要なスポーツなので、格闘技的な要素を持つスポーツが、学習院の校風の中で育っていくかどうか心 配でしたが、平成に入り部員数も増え、100名を擁するクラブに成長致しました。
平成3年には2部全勝優勝、1部との入れ替え戦に出場致しました。その後、学生の運動部離れで部員数の減少、3部転落等もありましたが、3年前に2部に 復帰し、昨シーズンは部員数60名で、16年ぶりに甲南大学(現在関西1部校)に勝利、四大戦2位、リーグ戦2位という成績を残せました。
さてわが部は今年(2003)で創部50周年を迎えることが出来ました。平成15年2月15日、東京、椿山荘でご来賓、桜鎧会員、現役約400名の方々にお集まり頂 き、賑やかに50周年の式典を執り行う事ができました。
50周年を機に現役に望む事は、上位を目指すことはもちろんですが、学習院の綿々と続く教育方針の下、フットボールを通じて心身を鍛え、”たくましく心 豊かな人間” に成長して欲しいと思います。桜鎧会会員、現役共々、力を合わせて微力ではありますが、学習院の発展の一助になるように精進致す所存でござ います。皆様におかれましても、今後とも益々のご指導、ご声援をお願い申し上げます。

アーチェリー部桜友会の歩み

アーチェリー部創部45周年を迎えて

学習院大学アーチェリー部は、日本のアーチェリー界の黎明期ともいえる昭和32年5月に、樺山庸夫先輩(昭 34経)他数名で「弓道部」再建を発起しました。ご指導いただいた全日本弓道連盟教士の小沼英治先生は、アーチェリーが持つ日本人に適合した新しい魅力に興味をお持ちになり、研究もされておられました。その折り「これからの時代は、洋弓も取り入れてみてはどうか」とのアドバイスをいただき、和弓・洋弓を併せた「弓道愛好会」として昭和34年、大学当局より正式に認められました。アーチェリーといえばロビンフッドのイメージしか思い浮かばなかった時代に、進取の気性に満ち溢れた諸先輩のご努力により、アーチェリー部(昭和42年、部に昇格)の母体となる愛好会が誕生したのです。

以来、今日までの45年間は苦難と波瀾の連続であったと思います。その度に、部長として永年にわたりご指導賜った波多野里望名誉教授をはじめ、大学当局のご理解にも支えられてきました。また、アーチェリー理解者のご尽力と、それぞれの時代を担った現役学生諸君のひたむきな情熱と真撃な取り組み、卒業生各位の温かい支援が相まって、今日まで歩み続けることができました。一方、学生諸君の活躍は、団体戦では関東学生アーチェリー連盟に所属し、不振の時代はあったものの、過去10年を見ると男女共、ほぼ1部リーグに在位し、結果、全日本王座決定戦でチャンピオンになるなどの活躍をしています。また、個人戦も全日本選手権大会、世界選手権大会において多くの選手が活躍し、学習院の名を上げているのも、伝統ある運動部として誇りに思うところです。
さて、創部45年の節目に当たり、「創業は難し、されど守勢はなお難し」とよく申しますが、組織を将来にわたって発展させてゆく苦労は、並大抵のものではありません。しかし、今日まで培ってきたブルズ・アイ倶楽部会員約500名の強固な結束力と、現役学生の他を圧倒する実力と情熱があれば、更に大きな飛躍への道につながると確信いたします。学習院の名声を更に高めるため一致団結し、努力して参る所存です。

「學習院大學應援團」の歩み

古き良き伝統を受け継ぎ、奉仕の精神をもって学内外で大いに活躍中!

リーダー部、チアリーダー部.吹奏楽部の3部で構成されている「応援団」。一つの目標に向かって夢中になって取り組むその 姿は、人々に勇気と希望を与えている。
学習院で応援団が産声を上げたのは、昭和27年のこと。正式名は「學習院大學應援團」という。結成のきっかけは、東都大学の野球リーグでの学習院硬式野 球部の1部・2部リーグ入替戦。東都大学リーグに加盟して2年後の快挙であった。これに合わせて、初代団長の宇留千一郎氏(昭28政)を中心に応援団は結 成された。
以前から応援行為のそのものはあるにはあったが、常設的なものではなかったためまさにゼロからのスタート。リーグ戦では目前に迫っていたため、結成後に 応援団を養成している時間的な余裕はなかったと言う。
そうした状況下で、空手部を中心に既存の集団に協力を仰いで、応援団としての頭数を揃え、リーグ戦の応援に臨んだ。また、音楽部に楽器を提供しブラスバ ンドも結成した。応援人員を動員するのも大きな問題であった。当時は大学生だけでは1000人に満たなかったので、女子部から初等科、中等科の学生まで参 加して大応援合戦を展開したのである。
結成から六年後の昭和三十三年十一月。応援団の歴史上、大きな出来事があった。学習院大学硬式野球部が、東都大学一部リーグで優勝を果たしたのである。 優勝決定戦当日には皇太子殿下(現天皇陛下)や義宮様(現常陸宮殿下)をはじめ、八千人もの応援団が神宮球場に集い、大学応援団を中心に熱い応援が繰り広 げられた。当時の硬式野球部には優秀な選手がいたことは紛れもない事実ではあるが、硬式野球部を優勝に導く原動力の一つに応援団の活躍があったことも忘れ るわけにはいかないだろう。
その後、硬式野球部は二部に降格。応援団の活動も地味になりかけたが、そんな中、今でも続けられている早朝の学内清掃が始められた。
応援団のメインとなる活動は、学習院・成蹊・武蔵・成城の四大学が参加する「四大学運動競技大会」の応援活動だ。第一回が昭和二十五年に開催されてか ら、平成十一年で記念すべき第五十回目の大会を迎えた。学習院は通算三十九回の総合優勝、昭和五十五年の第三十一回大会からは破竹の二十連勝を果たしてい る。その成果を陰で支え続けてきたのが、他ならぬ応援団の応援活動であった。応援団としての愛校心が選手の心に火をつけるのだ。 かくして活動を続けてきた応援団にも新たな動きが現れる。昭和五十六年にチアリーダー部、平成元年には吹奏楽部を設置。
永年の念願であった三部構成が出来あがった。
近年は活動の幅も広がり運動部の応援や四大戦の応援活動を始め、オール学習院の集いや桜友会新年会など学校関連行事への参加も活発になってきている。平成 十一年七月に目白の百周年記念会館でおこなわれた天皇陛下のご成婚四十周年と即位十周年を祝う同期会には、吹奏楽部の現役メンバーが、「君が代」や「学習 院歌」を御前演奏。力強い演奏で会場を大いに盛り上げた。
また、三部それぞれの活動もおこなわれており、チアリーダー部は年数回の大会への出場、吹奏楽部は平成十年から始めた定期演奏会の開催へ向け、日々練習 に情熱の炎を燃やし続けている。その結果、学内のみならず学外での評価も上がっている。 講演活動は学内だけにとどまらない。昭和四十年から始まった四大学の応援団主催によるチャリティーショー「クローバーの集い」がその一つだ。恵まれない子 供たちにもエールを起ころうという奉仕の精神の実現を目標に、今まで二度の中断はあったものの毎年開催されている。
平成十一年の十一月七日には記念すべき三十回目が九段会館大ホールで開かれ、リーダー部の演舞やチアリーダー部の演技、吹奏楽部の演奏発表会などがおこ なわれた。この集いの収益金は、全額あしなが育英会に寄付され、恵まれない子供たちのために活用されている。
応援団には古き良き伝統が引き継がれていると同時に、新しい伝統も着実に作り上げられている。一つの目標に向かって一致団結して、精一杯努力する。そん なすがすがしい文化が応援団には息づいている。

ゴルフ部のあゆみ

学習院大学ゴルフ部の歴史は、昭和二十七年、安田弘氏を中心にした十名から始まった。当初はゴルフ部ではなく、同好会とし ての活動だった。中には当時としては珍しく、女性二名がいた。昭和三十年代になると次第に活動も軌道に乗り始め、それとともにゲーム戦でAブロックに入る までになる。現在Aブロックは将来プロゴルファーを目指すような学生が活躍しているが、このころはまだみんながアマチュアで、学習院も慶応と優勝争いを繰 り広げることができた。そして昭和四十年代、現在、ゴルフ部総監督をなさっている.生田憲一氏らの学生時代にその全盛期を迎えた。全日本大学ゴルフ対抗戦 や全日本学生ゴルフ選手権などの大会で団体や個人で、優勝こそできなかったものの二位に何度も入る活躍をした。
OB会の方に目を移すと、現在会員六百名を越え、会員相互の親睦を図るため、昭和五十七年に創部三十周年イベントとしてアメリカンクラブで、平成四年に は四十周年イベントとしてホテルオークラでパーティーを開催した。このパーティーにはOB・OGは当然としてその家族、または長年親交の厚い他大学のOB 会の方々も多数参加した。特に四十周年の時には常陸宮殿下・妃殿下をお迎えして盛大におこなわれた。
そして平成七年九月にはOB会に広く寄付を募り、多くの賛同者を得て学内にゴルフ練習場を作ることができた。一度に五人が練習できるほどの大きなもの で、現在では大学ゴルフ部、高等科ゴルフ部が練習に使用している。
コルフ部の伝統は、今後もOB会の強力な支援のもと、現役部員によって守られながら、さらなる発展をしていくことだろう。、2002年、創部五十周年を 迎える。そこには年代を超えたゴルフ好きたちが技を競い合っていることだろう。

空手道部のあゆみ

“空手を通じて、自分自身を創る”。
今なお受け継がれている「質実剛健」の気風はわずか5名の若武者の熱意から生まれた。

空手道部が創部されたのは、50年前の昭和25年(1950)でした。わずか5名の若武者が道場もなく、土の上で裸足に なって始めました。
その頃の空手道部は見事なほど無一文でした。最も、こうした物質的欠乏も、若い一途な情熱の前では無力に等しかったのです。
空手道部は、発足と同時に故工藤張雄先生(元女子部教諭)を師範としてお迎えしていましたが、そこには独自の自由な雰囲気と明るさがありました。
先生は決して技術面のみにとらわれることなく、むしろ空手の内面性、精神性を強調されるとともに、部員一人一人の自主的な行動に目を向けて、全人格的に 対処しようと心がけておられたようでした。
このような師弟の交流が、空手道部の原型を徐々に形成していったのだと思います。
こうした体験から、地味ではあるが「空手を通じ自分自身を創る」ことを学び、その思いは社会人となっても変わることなく今なお連綿と続いております。
同時に、「草創期から現在に至るまで底流として流れてきた「質実剛健」の気風は、豊かさの中にあっても風化させることなく、次世代に受け継いでいって欲 しい」。発足時の部員の一人・濱尾和男氏(昭28政)はこう言っています。
我が空手道部は試合制を採っていないので、自分たちの稽古が強いのか弱いのか分からないと思う人がいます。
しかし、どんな武道においても命を懸けた人の強さは比類なきくらいに強いことだけを念頭においておけばよいのです。競技会的勝負は問題外として、私たち は稽古を続けております。
どこか「哲学空手」といわれるのは、絶えず自分自身との闘いであり、止むことのない欲望との闘いであるからです。
苦から修行者には、何か暗いイメージがついて回るのは、一人で闘っており、他人と相容れない孤立の世界を尊んでいるからであり、これは仏教や密教の影響 かと思われます。
私たちの部は、十代から二十代にかけての青春時代に、できるだけいい汗をかけるところでありたいと願っております。いつも平常心を持ち続けることができ る人になれれば、素晴らしいと思いますし、また人間の温かさが分かる人になってもらいたいと念じております。
21世紀に必要な人材が当部より多く出ることが、強さの証明になることだと思います。空手に強く、かつ世の中に役立つ理想像を求めて止まないのが私たち の部であり、日本空手道の始祖・故船越義珍(松涛)先生の教訓であり、故江上茂師範の心技体の教えです。
50年の歳月が時代とともに変化して、心技体が変貌しっつありますが、特に人間の寿命が延びて80歳が平均になりつつあることは非常に意義があります。
空手道の考え方も時世に必要な事柄は採り入れていく必要があります。誰でも分かりやすい形と心の持ち方、知育と体育の違いなど、現代が求めているものの 重要性は何なのか探求していかなければならないと感じている今日この頃です。

文/渡辺伊佐保(昭43済)

硬式野球部 栄光の11・24

昭和33年11月24日、東都大学一部リーグで学習院大学硬式野球部が優勝を決める!

明治22年の野球部創設から60年後の昭和24年、新制大学発足と同時に大学硬式野球部の歴史が始まった。翌年には東都大学野球リーグに加盟し二部で善戦。わずか2 年後の昭和27年、めでたくリーグ1部に昇格した。その後一進一退を重ね、昭和33年春、2部転落の危機を迎える。入替戦の相手は、芝浦工大。しかし、ピッチャーの根立光夫氏(昭34政)が爪をはがしながらも力投し、1部の座を守った。
同年秋。学習院は中大に連敗し専大戦も敗れたが、農大、日大、駒大に連勝。春の最下位から優勝候補にのし上がった。
11月12日から14日の第1回優勝決定戦。中大が日大に大勝し、学習院は日大に敗退。続く中大戦は、後半まで2点リードした中大の優勝が決まったかに見えたが、学習院が劇的なサヨナラ勝ちを収め、三すくみに。11月18日から21日の第2回決定戦。その日大戦で、学習院はまたもサヨナラ勝ち。中大は日大に敗れ、学習院初優勝の期待が高まった。皇太子殿下(現天皇陛下)や各宮様方も応援に駆けつけ、学習院の応援スタンドは、空前の大応援団で埋め尽くされた。だが学習院は敗れ、またも三つ巴に。優勝預かりとの声もあったが、関係者の熱意でもう1回決定戦を行うことになる。
3度目の決定戦は11月23日・24日と神宮球場で行われた。1日目、学習院は日大に勝利。翌日午後0時36分、遂に優勝を懸けた中大戦を迎えた。ビッチャーの根立氏は、中大の強力打線を6回まで2安打に押さえ、2回にはタイムリーで1点先取。5回、田邊隆二氏(昭34経)の長打を小幡隆一氏(昭36 政)の犠飛で1点。続く北田次平氏(昭35経)、佐藤太美雄氏(昭36経)が連打し、5番の江野澤浩市氏(昭35政)がとどめのスリーランホームランを打ち込んだ。初優勝の栄冠を遂に学習院がものにしたのである。AP電は全世界に向け、「皇太子殿下ご出身の学習院大野球部が24日、東都大学リーグ戦で優勝。義宮、清宮両殿下を含む八千の群衆を前に中大と対戦し、5-2で快勝した」と伝えた。







桜蹴会のあゆみ

学習院サッカーを受け継ぐ者たちが取り組む姿勢はただ一つ。
  時代年代は違っても、変わらないのは「ベストを尽くす」こと。

 学習院でのサッカーサークルの胎動は、戦後間もない昭和24年。新制大学が発足した年。サッカー部の前身である「サッカー同好会」設立の申請が村田經和氏(昭29独専)を中心に学校当局になされ認可。翌25年から部員が集まり、同好会としての活動が開始された。
 昭和26年には、第2回目を迎えた「四大学運動競技大会」で、サッカーが正式種目に。学習院もプレイし、運動部セレクションでない学校では、一番の強さを誇った。
 2年に及ぶ同好会時代に確実に実績をあげたサッカー同好会は、昭和27年に「学習院大学輔仁会サッカー部」として活動を開始。初代部長に、豊崎光衛教授が就任し、一貫したサッカー理論を流布した。現代に脈々と受け継がれる学習院サッカーの土台が固まった。
 昭和28年、部としては初めての対外試合である「第1回全日本学生選手権大会」に参加。翌29年には「関東大学蹴球リーグ5部」に加盟し、部として本格的の活動を開始した。新規加盟後、サッカー部は怒涛の3年連続リーグ優勝。一気に3部昇格を果たした。3部に昇格後、昭和37年まで毎年ブロック優勝を成し遂げたサッカー部。この時期が、第1期の黄金時代であった。
 昭和38年になると、関東のリーグ制が改変され7部制に。学習院は国士舘、順天堂、青山学院など強豪ひしめく第3部に残った。そして昭和43年に再びリーグ制が改変され、東都リーグ1部に加盟。関東大会に優勝するも、関東2部の入替戦で上智に惜敗。昇格は実現しなかった。
 49~54年にかけては、東都2部に降格し、苦難の時期であったが、チーム強化が図られ、55年に7年ぶりの1部リーグ復帰。昭和60年にはリーグ優勝を果たした。そして、関東大会2位で入替戦に進出。慶應を2-1で下し、悲願の関東2部リーグ入りを成し遂げたのである。会場の西ヶ丘サッカー場には多くのOBが応援に駆けつけ、勝利の喜びを味わった。
 2年にわたって関東2部で健闘したが、再び東都1部降格。創部40周年の平成4年には、13年ぶりに東都2部に降格してしまった。ところが、これで終わらなかった。
 平成9年には東都2部リーグで、黒星なしの優勝をし、見事1部に復帰した。一進一退を繰り返しつつ、現役部員たちは活躍している。
 サッカー部のOB会「桜蹴会」では、毎月第3日曜の昼間、中高グラウンドに有志で集まりサッカーを楽しんでいる。現役の合宿には若いOBも参加し、胸を貸す。また、甲南や成蹊とOB戦も行っている。
 折しも今年は日韓共催でサッカー・ワールドカップが開催され、全国的にサッカー・フィーバーに沸いた。各地のどの試合会場も大いに盛り上がり、サッカー文化が日本にも根付いたのではないだろうか。
 学習院大学輔仁会サッカー部も今年、創部50周年を迎え、記念の催事が計画されている。今後とも初・中・高・大の一貫の取り組みで学習院のサッカーの伝統を継承し、活躍することを期待したい。「全体のレベルが上がった」とOBも認めるサッカー部。上位リーグを目指して、学習院の選手たちがベストプレイを繰り広げてくれるのが楽しみだ。

剣道部の歩み

学習院における剣道部の歴史は明治にまでさかのぼることができる。しかし、当初は部としてではなく、あくまでも授業の一環としての剣道であった。これは、剣道をはじめとする武道が当時それだけ重要視されていたという証であろう。 明治十二年三月制定の学則によると、男子部の一科目として剣柔術が挙げられており、同年十一月七日に道場開きがおこなわれ、十一月十八日より榊原鍵吉を教師に招き、剣道科目として授業が開始された。明治十五年度まで、中等科では正課の授業として取り入れられていたが、以降は随意科目とされた。また明治十四年四月十五日には明治天皇が学習院にご来校になられ、体操・馬術とともに剣柔術をご覧になっている。 明治十九年になると、一時剣道・柔道の二科目は廃止されたが、同二十四年には復活し、同二十九年十月十日には剣道大会が開催された。その成績がよかったこともあり、この大会は毎年開催されることが決定した。また明治三十八年からは満十歳以上の希望者に、放課後剣道を教授することとなった。 明治四十年に第十代学習院長に就任した乃木希典は、特に剣道を奨励し、自ら竹刀を持って指導されたと言われる。 剣道部・柔道部などの武課は、はじめに見たように終戦間近まで輔仁会所属ではなく正課時間外武課に位置付けられ、剣道部は昭和の剣聖と謳われた持田盛二範士をはじめとするそうそうたる師範のもとで中・高等科合同で運営され、また修業学生には進級試験と教官の考査により級や段位が与えられるなど活発な活動がおこなわれていた。、対外試合などの活動においては輔仁会所属の運動部とほとんと変わることなく活動していた。そのような状況の中で、昭和十八年には輔仁会は初等科・全教職員・学生を含む形に改組された。剣道部などの武道各部も、この時をもって正式に輔仁会所属となった。 しかしこの後、戦火は激しくなっていき、昭和二十年四月十三日の大空襲で目白の本館などの木造建築物のほとんどが消失してしまう。柔剣道場も消失しかけたが、学習院防護団員として宿直にあたっていた桜井槌蔵師範らの懸命の消火活動によりその難を免れ、同年五月五日から剣道・柔道部員が交代で道場防護のために宿直にあたった。この活動により柔剣道場は戦火をくぐりぬけることができた。しかし敗戦後、文部省の通達により武道が禁止となり、弓道・柔道部などとともに剣道部もその通達により活動を禁止される。 剣道が復活するのは昭和二十八年になってからである。現在の剣桜会の副会長である大井昭彦氏ら七人が剣道修練会と称する同好会として活動を再開した。活動再開には、剣桜会の先輩、佐藤蕃氏、そして故秋田一季氏が多大な協力をし、この二人を通じ多くの先輩や協力者を得た。当初、焼け残った道場は、まだ教室などとして使用されており、中央大学の道場などを借りたり、現在の大学北一号館辺りの天覧台付近地面や、時には道場の机や椅子を動かしてスペースを確保したりしながら稽古を続けた。このような苦しい時代を乗り越えて昭和三十三年に部としての活動を認められ、同年には寒稽古も復活した。 また対校試合では明治四十三年から独逸学協会中学校(現在の独協中学校)と、大正十三年十月からは東京高等師範学校附属中学校と中等科の試合(現在の附属戦)が行われるようになる。この他にも多くの学校との対抗戦があったが、現在に至るまでこの附属戦が最重要視され、対抗戦の直前には特に熱のこもった練習風景が繰り広げられている。また大学では甲南大学との総合定期戦が昭和三十二年の第二回大会から、四大学運動競技大会が昭和三十五年の第十一回大会から剣道も正式種目に加わった。 現在剣道部では、女子部を含む全学剣道部合同稽古として、夏は菅平で合宿、冬は学内で寒稽古を行っている。または寒稽古では毎年、院長をはじめ大学長、各科長、各学校の剣道部長から納会に参加し、院長より新しい段級を允許され皆勤者へは賞状と木盃が授けられる。学習院の校規に掲げられた基本理念である一貫教育を現在まさに形として体験しているのがこの剣道部である。 そして、亡くなるまで剣道部を愛し続けていた、故秋田氏が剣道について語った言葉に「美しい剣道をしなさい。それが一生懸命やるということなんです」という言葉がある。この言葉を胸に道場に稽古を見に行くと、この言葉が今も脈々と剣道部員一人一人に生きているような気がした。監督や先輩の言葉を聞き、それを必死に実行する。汗にまみれながら相手に向かって打ち込んでゆく。「稽古は厳しく、そして部生活は楽しく」これが学習院剣道部に根付いた心である。