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雪桜会の歩み

オーストリア陸軍少佐との氷上の出会い。
その偶然が日本の、そして学習院の スキーの歴史の偉大な一歩となった!

学習院の学生がスキーを始めたのは、はるか明治44年(1911)12月まで遡る。当時来日中だったオーストリア陸軍のテ オドール・フォン・レルヒ少佐が長野県の塩尻峠から諏訪へと下った折に、諏訪湖で学習院の学生たちに出会った。彼らはその時は「スキー」ではなく「スケー ト」を楽しんでいた。レルヒ少佐は、その輪の中に入り、彼らとしばしスケートを楽しんだという。この偶然ともいうべきレルヒ少佐との出会いで、翌年1月5 日に二荒芳徳、三島弥彦(日本人で初めてオリンピックに出場した陸上の選手)、相馬正胤、三井高公、戸田安定、有馬行郎の各氏が、レルヒ少佐から直接ス キーの手ほどきを受けることになった。これが学習院のスキーの始まりであり、日本に初めてスキーがもたらされた瞬間であった。
大正6年(1917)には、新潟県の関温泉でスキーの一般合宿(初心者指導のための合宿)が開始され、2年後には、山岳部とスキー部から成る「学習院輔 仁会旅行部」が誕生した。旅行部が創設されてからは、新設の山岳部とスキー部を統括し、夏は登山、冬はスキーが行われるようになった。山岳部では、25日 間に及ぶ「カムチャッカ旅行」をはじめ、15日間の「シベリア旅行」などを、一方、スキー部では、「関温泉スキー合宿」が行われ、47名もの学生が参加し た。その後も活動は順調に続けられ、大正13年(1924)に旅行部から「山岳部」へと改称。この後、スキーは山岳部の活動の一つとして行われるようにな る。
この合宿には、歴代の院長もたびたび訪れている。大正14年の合宿に は、第14代の福原鐐二郎院長がかんじきを履いて訪問。土産に「カステラ」持参し、スキーを試乗したという記録が残っている。
その後も山岳部によってこのスキー合宿は続けられたが、日本が太平洋戦争に突入したことに伴い、活動の中断を余儀なくされた。終戦後の数年は食糧事情の 悪化で合宿ができなかったが、昭和24年冬、有志により再び「関スキー合宿」が復活する。翌年12月には山岳部の主催で再びスキー合宿を再開。学習院のス キーに対する情熱を強く感じる。
昭和32年になると、山岳部の中から、活動をスキーにしぼった「スキー部」の設立を目指す部員が現れた。部内外から部員を募り、10名程度が集まった。 そして翌年、「スキーくらぶ」が誕生。これが学習院大学スキー部の始まりである。
当初は男性部員が多かったが、女性部員も次第に増加。昭和34年に「スキークラブ」とすべてカタカナの名称に変更し、40年まで続いた。そして41年に は同好会に昇格して「スキー同好会」と名称変更。部員数もかなり多くなり、スキー部の黄金時代を迎えた。わずか4年後の45年にはついに部に昇格、「ス キー部」となり、現在に至っている。
スキー部は現在、「ノルディック班」「アルペン班」「一般班」の3班体制で活動。一方、OB・OGは「雪桜会」の会員として、後輩たちの支援にあたって いる。
今ではウィンタースポーツとして当たり前の存在になっているスキー。その歴史は、学習院スキー史と学習院スキー部史に重なるといっても過言ではないの だ。

柔桜会の歩み

嘉納治五郎師範の辞令。明治19年に学習院の教授兼教頭になった時のもの

学習院の柔道の歴史は、講道館の創設と同時期に始まった。講道館柔道の創設者・嘉納治五郎師範が政治学・理財学の講師として、明治15 年(1882)1月に学習院に奉職。翌16年4月、院内に柔道場が完成し、学校が柔道を日本で初めて正科(正規の学科)として採用した。中等科以上の希望者を対象に、師範自ら指導を行ったのである。
当時、華族会館の附属施設であった学習院は、その生徒の大半が華族の子弟であったため、危険が伴う柔道に対しては、父兄の否定的な意見が多かった。しかし、嘉納師範の柔道に寄せる情熱を初代の立花院長や谷第2代院長が理解し、いわば反対を押し切る形で柔道が行われた。

柔道部の創部については、正確な記録が残っていない。だが、明治31年の「輔仁会雑誌」に、初めて「柔道部」の名称が使用され、記述されていることから、この頃が創部と考えられる。
学校では、武道の一つとして明治21年に「柔道修業生徒規則」が定められ、放課後に同好の学生によって稽古が行われていたが、同41年になると、中等科 3・4年の一部の学生に毎週1回、武課正科として課されるようになった。大正11年に柔道、剣道、弓術、馬術は正科外武課として、それぞれ「部」と称することが認められるようになった。
最初の対外試合は、明治24年の第一高等中学校柔道大会への出場だ。以後、講道館や北辰館などの選手と試合をしてきたが、学習院では他校より早く柔道が行われていたため、大半の選手が勝利する圧倒的な強さを誇っていた。いずれにしろ、当時は武道の正科として柔道大会が学校行事で開催され、院内学生同士の試合のほか、他校学生との対外試合が行われており、今日の部活動の趣とは異なっていたのである。
昭和18年、輔仁会所属の「部」となったが、昭和20年の終戦とともに、武道授業の禁止と正科外の学校における部活動の禁止が通達されたため、62年の歴史を持つ柔道部は廃部になった。柔道部にも戦死されたOBがいたことを記しておきたい。
昭和25年、GHQの許可が出て、学校の柔道が復活。昭和27年に新制高等科が「柔道同好会」、大学が「体育研究会柔道部」を結成し、目白警察の道場を借りて稽古を開始した。この後、学校側から放課後のみ使用するとの条件付きで教室(旧道場)の使用許可が下り、OBから畳30畳の援助もあって、院内で稽古ができるようになった。
さらに、昭和29年に高等科、翌30年に大学がそれぞれ「部」に昇格し、新制中等科にも昭和40年に「柔道同好会」が発足、同42年に「部」に昇格した。
さて、OB会「柔桜会」の発足は、昭和28年のこと。翌29年には第1回総会を霞会館で開催し、今では会員約400名を有する大所帯になった。毎年6月に定例総会を行っているほか、忘年会や寒稽古、オール学習院の集いで現役との交流試合など、活発な活動を行っている。
平成15年、学習院柔道は120年、柔桜会は50周年という記念の年を迎える。創始者の嘉納師範が残した「努むれば必ず達す」の教えは、今でも多くの OB、現役の心に深く刻まれているのである。

昭和9年頃の学習院中・高等科柔道部。2列目の右から7番目に写っているのは島津久厚院長(当時中等科4年)

昭和35年1月15日に旧道場で行われた寒稽古。左上の書は嘉納治五郎師範直筆のもの

 

水桜会(水泳部)の歩み

 水桜会は学習院水泳部の卒業生で構成され、会員の親睦と、現役水泳部の活動支援を目的にしています。学習院大学、高等科・中等科、学習院女子大学、女子部高等科・中等科の全水泳部を対象としています。
 学習院水泳部は、昭和10年に結成されました。1年がかりで学生たちの勤労奉仕をもとに目白にプールが完成したときです。全国に数ある水泳部のなかで先輩たちの手作りの苦労によるプールを持つ学校はほとんど例がありません。
 誕生した水泳部は、学習院伝統の古式泳法「水府流」から近代泳法へ転換し昭和16年には東京高師付属中学(現つくば大付属高校)との間で第1回定期戦を開始し、また旧制高校のインターハイに参加して好成績を上げ本格的活動を開始しました。
 第2次大戦で中断したあと、昭和24年には、高等科がインカレ3部の水球で優勝し、25年に新設された大学水泳部は、関東学生の競泳と水球の両分野で26年3部優勝、27年2部優勝と連戦連勝で1部に昇格する大活躍をとげました。
 こうした水泳部の活躍を支えるため、昭和23年にOBが結集して「クラブ・ラナ」が結成され、一般学生を対象に水泳講習会などを開催して好評をえました。これを母体に正式なOB組織として発足したのが水桜会で、今日まで男女各水泳部の発展を支えてきました。
 水桜会は、平成7年春、会員175名から1,350万円の募金を集め、目白プールの温水化装置を新設し、学習院に寄付しました。時代の進歩につれて各大学プールは室内温水プールが主流となり、水球はじめ競泳の試合もシーズンが早まり、早春の冷水での練習がハンデとなってきたためです。募金はその2年前に亡くなった藤崎 健氏(昭30大卒)のご遺族からいただいた100万円を基にして会員諸氏によびかけ、昭和14年旧制高等科卒の小出英忠先輩はじめ大學、高校、中学、女子部の卒業生から広く寄せられました。この募金活動は水桜会の基盤を固めるために大きな役割を果たしました。

(文責 昭和24年旧高卒 小島宣夫)

大学水泳部の発足 -たった二人の水泳部-
 大学水泳部発足時の詳細については、昭和60年に水桜会が発行した我が半世紀-創部50周年記念文集に詳しく記載されているので、ここではその一部を引用しながら概要を御紹介したい。
 大学水泳部が発足したのは1950年(昭和25年)、学習院大学が創設された翌年である。高等科水泳部には同級生が7名いたが、学習院大学へ進学し水泳を続けたのは僅か2名、私と渡辺正直君だけであった。二人とも中等科、高等科を通じて水泳部に所属していたので、大学にも水泳部を設けなければならないという使命感のようなものがあり、早い話が、二人共そのために学習院大学に進学したようなものだった。
 入学早々水泳部は創ったものの、部員二人では如何ともし難い。新設の大学だから、関東学生は当然一番下の3部から始めることになる。水球リーグ戦に参加できない我々にとっては、東伏見の早大プールで行われた関東学生の競泳だけが唯一の行事となったが、ここでも少数部員の悲哀を味あわされた。初日100米自由形予選で私は予選をトップで通過したが、リレー種目に出場しない大学は参加資格無しとの大会役員の裁定で、二人ともその後のレースを泳ぐことはできなかった。結局初年度の大学水泳部の記録は、何も残っていない。この後二人で部員獲得に奔走し、1年上の楠瀬、小杉両先輩、同期の松島が入部、部員は5人となった。
 こんな状況にもかかわらず、我々が部の将来の発展に希望と確信を持ち頑張ることができたのは、翌年および翌々年に高校から入ってくる後輩達に対する大きな期待があったからのように思う。前年の昭和24年、高校水泳部はインターハイで東京都代表として初の全国大会への切符を手に入れ、甲子園に出場した。この時我々と一緒に戦った仲間が入学してくれば、大学でも相当の成績が挙げられるはずだ。三部から駆け上がって3年後に一部で戦うという夢は、すでにこのたった二人の部員の時から我々の頭の中に出来上がっていた。
 事実、翌51年には高等科からの藤崎、佐野、久松らに加え田原が入部し、水球は三部で全勝優勝、競泳も優勝し二部昇格した。この年の水泳連盟機関紙(水泳92号)には、『三部優勝の学習院は断然たる強みを見せ東工大との一戦を除いてはいずれも10点以上の得点差を示し、今すぐ二部で戦っても上位を狙える実力を有してる。春の合同練習に最も熱心な態度を堅持した学校の一つであったことを想起すれば、当然の帰結と云って差し支えない。』と記されている。さらに52年には後藤、鏑木、高橋、花山、松石らの新鋭を加え、水球、競泳とも二部優勝一部昇格と、夢は現実のものとなった。
 最後の年、一部では立教大学一勝したのみで五位に甘んじたが、全日本では学生二位の早稲田と延長二回の大接戦を演じ、1-0で破れはしたがこの年の水球界の話題となった。3年前たった二人で辛酸を舐めた大学水泳部も、4年間を通じてまずまずの滑り出しだったと云って好かろう。
 翌年卒業試験を終え、4月1日までの自由な時間を何に使って、渡辺と二人で戦争の影響などで混乱していたOB名簿の整備にとりかかった。一部に昇格し新聞に名前が出るようになってから、知らない先輩が試合を見にきてくれたこともあり、OBの有難さを感じていたことも影響していたように思う。何とか名簿が出来上がってから、プールサイドに数人が集まりOB会の名称を考えた。私の記憶に誤りがなければ、「水桜会」の名は1954年3月ここで生れている。

(文責 昭27年大卒 加藤正躬)

大学女子水泳部設立と松沢洋子さん

 1956年4月4日から7日間、神田YWCAプールで、日本水泳連盟主催の下に「シンクロナイズド スイミング講習会」を開催することになった。はたして何名集まるか見当持つかなかった。物珍しさからかマスコミの取り上げられるようになったとは言え、120名程の応募者があったのには驚いた。「初期の選手はこの講習生の中から育った」これは当時、文部省の文官であり、私どもの指導者であった串田正夫先生の「シンクロの歴史」からの抜粋である。
 女子水泳部の設立とこのシンクロとは切っても切れない関係がある。講習会の初日120名集まったメンバーも最終日には10名足らずになった。その中の6名が日本初のシンクロ競技会に出場し、そのうちの3名が松沢洋子、立石佳子、(現姓:立石)、佐々木裕子(共に昭34大卒)の学習院生であった。
 練習するプールを求め、当然のことのように学習院のプールを使おうとした。しかし私達は「水泳部」でもなく「男子」でもなかった。当時プールは男子水泳部のものであった。1936年のベルリン オリンピックの団長で、日本水泳連盟のシンクロ普及部長を当時されていた松沢洋子さんの父君松沢一鶴氏の見えざるお力のお陰もあり、私達は女子水泳部員となれた。
 その頃、松沢さんはいつも走っていた。その後ろに、立石、佐々木も言われるままに彼女に従って走った。松沢さんはチーム,ヂュエットの二種目で優勝した。何時も先を見て走り続けた松沢洋子は1961年帰らぬ人となった。
 今、シンクロの会で私達は「化石」と呼ばれている。縄文時代のシンクロを経験した者として、今はすべてが懐かしい。

(文責 昭34年大卒 佐々木裕子)

中等科水泳部の誕生

 水桜会の歴史にも触れられているとおり、昭和23年夏に目白のプールにおいてクラブ・ラナ主催の水泳講習会が行われました。敗戦後の娯楽も極めて少ない時代であったので大勢の少年、少女が参加し、水泳の爽快さ、面白さを満喫させられました。
 昭和24年中等科が小金井から戸山の女子部構内に移転したことで目白のプールもグーンと身近になり、講習会で水泳熱の虜になった少年たちが「中等科水泳部」を作ろうと言う機運が一気に盛り上がり、その年の夏に結成されたと記憶します。部長は当然、猿木恭経先生(エテキ、日本泳法「小堀流師範」)が労をとってくださり、部員には3年生が岡村さん(名不詳)、2年に植田泰治、黒木正芳、林忠治、川原敏資、上田宏、江口公忠そして私渡辺勝彦、1年に小野寺龍二、前田兼利、佐藤肇等々の諸君が参加したと思います。
 シーズン中は午後3時過ぎ授業が終わると皆で一団となって戸山から目白まで歩いて行き、学習院の馬場わきの坂道を登ってプールに通いました。コーチは確か戸沢孝寿先輩(昭25年高卒)が行ってくださり、厳しい練習の中にも有益な楽しいお話があり、みんな生き生きと目白に通ったものでした。翌25年9月、筑波大附属中学との第一回対抗戦が行われましたが、附属には天野、小林、本郷、平野君等強豪ぞろいで惜敗したのを未だに憶えています。

(文責 昭33年大卒 渡辺勝彦)

山桜会(山岳部)の歩み

昨年、創部80周年を迎えた輔仁会山岳部。
日本から世界の名峰に夢と憧れを寄せて、山への讃歌を自然という名のノートに刻み続ける。

はるか明治時代にまでさかのぼる学習院の山岳活動の歴史。当時ボン大学に留学していた近衛篤麿氏がスイス・アルプスを登山 したのがその始まりという。以後、21世紀を間近に迎えた今日まで、学習院出身者による山岳活動は活発に行われ、数々の偉業を築き上げてきている。
山岳部の創部は大正8年4月。創部当時の名称は「輔仁会旅行部」で、部内はさらに「旅行部」と「スキー部」に分かれていた。創部3カ月後には赤城・日 光・白馬岳・妙高山への山行などが行われていたので、発足当初から活動が活発であったことがうかがえる。
「山岳部」と改称されたのは大正14年。同年、学習院と慶應の合同登山隊が北米のアルバータ峰(3619m)初登頂を成し遂げている。日本山岳会初の海 外遠征でもあり、学習院からは岡部長量、波多野正信(ともに大12旧高)の両氏が参加。頂上に立った隊員9名は、日の丸を振ることも、万歳を叫ぶこともな く、無言のまま互いに握手を交わし、初登頂の喜びを分かち合ったという。
大正14~16年には、日本山岳協会や日本山岳会の会長を務めたことがある松方三郎氏(大8旧高)や元部長の渡辺八郎氏がヨーロッパアルプスを登山。大 正15年には、秩父宮殿下も一緒に登られている。
時代は移り変わり昭和10年。「森林・草原・氷河」という日本の山岳書の中でも有数の名著を残している加藤泰安氏(昭9旧高)や周布光兼氏(昭13旧 高)ほか4名が大興安嶺最高峰(1835m)の初登はんに成功した。
昭和28~33年には、日本山岳会や京都学士山岳会の海外遠征に参加。前OB会長の舟橋明賢氏(昭19旧高)をはじめとするグループがアンナプルナ2 峰、4峰の試登を果たしたほか、芳賀孝郎氏(昭33経)のグループがチョゴリザ(7654m)の初登頂も成し遂げている。
海外遠征は他の団体との合同がメインであった山岳部も昭和39年、ついに学習院単独の登山隊を結成。川崎巌氏(昭35経)らによりアラスカ・ローガン峰 の登山を行った。中央峰(6050m)の登頂と西山稜の初登はんに成功し、学習院山岳部の歴史に残る偉業を成し遂げた。
念願の学習院ヒマラヤ登山隊が結成されたのは昭和51年。三井源蔵氏(昭20旧高)、贄田統亜氏(昭38化)などのグループがスキャンカンリ峰 (7544m)初登頂を果たした。
なお近年では、永田秀樹氏(昭55独)らによるチョー・オユー峰(8202m)の登頂や、棚橋靖氏によるナンガパルバット(8125m) の単独登頂成 功が偉業として挙げられる。
山岳部創立80周年記念を迎えた平成11年10月、学生を中心とした初の海外合宿が行われた。目指したのは中国の未登峰レッドメイン峰(6112m)。 海外での登山経験が豊富なOBの棚橋氏を隊長に学生主体のパーティーが初登頂に成功したことは、今後の山岳部の黄金時代の幕開けを告げる出来事にちがいな い。
もちろん山岳部の活躍は海外だけに留まらず、国内でも数々の業績を残し、枚挙に暇がない。
日本の山岳クラブの最古に数えられる輔仁会山岳部。今後も世界の数々の名峰を踏破し、母校に錦を飾ってくれることであろう。

庭球部後援会の歩み

今から100年前、四谷のキャンパスでいち早くプレーされていた「庭球」。
学習院庭球部の歴史は、日本テニス界の華麗なる歴史でもある。

サッカー、ラグビーなど近代スポーツのほとんどはイギリスで発明され、発展してきた。それは「庭球」(テニス)についても 例外ではない。近代テニスを考案したのは、イギリス陸軍大佐のウィングフィールド氏。明治6年(1873)のことである。学習院では明治30年頃、四谷の 院内で一遊戯として行われていたが、部の活動記録は明治35年から始まっており、この年が庭球部創設の年になっている。そして今年、創部100周年を迎え た。
学習院初のテニス対抗試合は、明治35年の東京高等師範学校(現筑波大学)附属中学との試合である。初試合で見事勝利し、「東都12校招待連合大会」へ の出場が認められた。
しかし、明治41年に校舎が目白に移るとコートがなくなり、練習不足で戦力は弱体化。長い低迷状態に入ってしまう。
その状態から立ち直ったのは、大正5年(1916)。東京高等師範学校を破った健闘は、「学習院庭球部」の存在感を再認識させ、翌6年の強豪・早稲田を 倒した折には、「春の庭球界は学習院の奮起で幕を切って落とした」と新聞に報じられた。大正11年には関東女子選手権が始まり、女子学習院の柳谷澄子さん が第1回の優勝者に輝いている。
大正13年、第1回全日本女子選手権が開催。公式戦初出場で同じく女子学習院の黒井悌子さんが見事優勝し、全日本大会でも第1回優勝者を学習院から出し た。黒井さんは12~13年の全トーナメントのシングルでも優勝し、学習院の生んだ最高の女子プレーヤーになった。
しかし時代は戦争へと突入。物資統制、インターハイ中止、他校庭球部廃止などの動きの中、昭和20年まで庭球部は活動を停止した。活動の再開は昭和21 年。インターハイで優勝し、成蹊定期戦にも勝利と、さいさき良いスタートを切った。
学習院が新制大学としてスタートした昭和24年、庭球部も大学硬式庭球部として新発足。31年には女子高等科が全国高校対抗戦に東京代表として出場し、 初の全国制覇を成し遂げた。翌年も優勝し、女子高等科は黄金時代に。一方、男子高等科も東京代表として出場し、全国ベスト4に輝いている。
テニスは多くの皇族方も楽しまれているが、現天皇陛下(庭球部名誉会員)と皇后陛下(聖心女子大硬式庭球部主将)がご成婚された昭和34年頃、テニス ブームが到来した。
庭球部の活躍は続いた。リーグ戦女子1部準優勝(昭和59年)、関東学生女子シングルス優勝(平成3年)、関東学生新進選手権男子シングルス優勝(平成 6年)などである。そして今年8月には、全国中学校テニス選手権大会男子団体の部で中等科テニス部が優勝した。庭球部黄金時代の到来を予感させる出来事で ある。
100年の歴史と伝統の重み。学習院庭球部の歴史は、日本のテニスの歴史でもある。次なる100周年の第1歩は、いま始まったばかりである。

庭球部員の記念写真。三井高元氏記念アンツーカーコートにて(昭和17年)

庭球部創部百周年を記念して
学習院庭球部は明治35(1902)年、輔仁会庭球部として創設され、今年で百周年を迎えることができました。
平成14(2002)年10月19日には、天皇皇后両陛下をお迎えし赤坂プリンスホテルにおいて学習院庭球部創部百周年記念式典と祝賀会を開催いたしました。庭球部OB、OG、現役とともに学習院庭球部と関係の深い四大学、甲南大学、関東の伝統校、ならびに学習院関係者、日本庭球協会の皆様をお招きしましたところ、380人あまりの参加を得て盛大に執り行うことができました。
学習院庭球部の歴史を振り返ってみますと、大正、昭和の初期は「全日本ジュニア」および「全日本女子」において、全国優勝を成し遂げた多くの優秀な選手を輩出した時代でありました。
終戦後の昭和24年には、学習院が新制大学として発足と同時に「学習院大学硬式庭球部」がスタート。着実に力をつけるとともに部員も増大し、今日の基礎を築き上げました。個人戦においても関東学生、インカレ、全日本等の大会で上位にランクされる選手を多数生み出した時代でもあります。
昭和55年以降には全日本出場者も出現し、平成10年には学習院大学で初めてインカレダブルス優勝者が誕生したことは、記憶に新しいことであります。
最近のリーグ戦は、他大学のセレクション方式による選手強化策と、学生の体育会離れの傾向から、学習院大学は、男子は4部、女子は3部と低迷しております。
しかし今年、男子中等科が「第29回全国中学校テニス選手権大会」の男子団体の部で見事に優勝し、全国制覇を成し遂げました。この出来事は、学習院庭球部に輝かしい歴史を刻み、創部百周年にまたとない花を添えてくれました。
この実績を活かし、我が学習院庭球部の現役諸君がさらに上位を目指し、日常の部活動の中で切磋琢磨してほしいと思います。そして、一人一人が新たな百年の歴史と伝統を築き上げる礎となることを心がけ、自己研鑽を積まれることを祈念するものであります。

拳桜会の歩み

創立30周年記念式典

少林寺拳法部創立30周年記念式典及び祝賀会が、平成9年11月1日(土)東京・芝パークホテルで行われた。午後4時に始 まった式典には、島津久厚院長、小倉芳彦学長両先生をはじめ、桜友会会長代理・金子剛様、運動部常任委員会・花巻亘様、全日本学生少林寺拳法連盟副委員 長・小林美樹様と数多くのご来賓をお迎えし、創立当初からの30年の歩みを出席者それぞれが強く感じた。又、祝賀会では、現役OBを含む90名の出席者を 得て、終始なごやかに、また盛会のうちに幕を閉じた。今回をもって拳桜会(OB会)を一新し、新しい組織体制で現役とOBが手を取り合って、本学のさらな る発展に貢献できるよう努力していきたい。

竿友会の歩み

創部55周年記念パーティー
昭和 28年創部から半世紀有余、魚釣りと自然が大好きの友が年々集いて55年、500名を超える愛好会となりました。平成20年9月6日百周年記念会館に於い て記念パーティーを開催しました。
5年前も同会館で50周年が開かれましたが、今回は卒業年次が昭和年代のOBと現役を対象とし73名の会員が参集しました。
創始者である藤崎OB会名誉会長から創部のエピソードや「竿友会は、OBも規約上現役と同等の正会員なので、一体となってますます盛り上げて欲しい」と の挨拶がありました。保谷OB会会長からも「一致協同して更に60周年・65周年と継続したい」との挨拶がありました。
又OB会より現役の皆さんの活動を充実すべく” 学習院課外活動助成金 “を寄贈する旨の発表がありました。 北九州市、名古屋市、松本市等々遠来の方々のスピーチや部室から運んだアルバムを広げて懐かしい歓談の輪が広がりま した。
「竿友会ホームページを開設して、もっと交流を広げよう」等の意見が出たり有意義な、和やかな時が流れましたが、予定された2時間もあっという間に過 ぎ、次の再会を約しておひらきとなりました。

愛好会 竿友会 担当者連絡先
矢谷 昭佑 (S41・経済学部卒)

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陸上競技部の歩み

昭和7、8、9年のインターハイで、前人未到の3年連続優勝を成し遂げる。

日本の近代陸上競技の発祥は「運動会」からはじまったといわれる。学習院における陸上競技の発祥も、明治23年、当時の皇 太子殿下(後の大正天皇)が赤坂離宮で行った運動会であった。皇太子殿下ご自身も競技に参加されたという。
その後、明治29年になって輔仁会主催の運動会が四谷の運動場で開かれた。こうした運動会がきっかけで明治32年に「徒歩部」が誕生。陸上競技部の歴史 がスタートした。
当時、陸上競技の分野では一高がその強さを誇っていたが、明治34年の駒場農科大の招待レースで海江田幸吉氏(明36旧高)が四百米で優勝し、学習院の 活躍がはじまった。
同時期、意外な人物が学習院の陸上の歴史に登場する。白樺派文学の巨頭であり、日本文学界の一時代を形成した志賀直哉(明39旧高)である。「文章の神 様」と呼ばれた志賀は、意外や意外、スポーツ万能の青年で、棒高跳をはじめ、器械体操や野球などでも活躍していた。
大正時代になると、全国陸上大会が開催されるようになり、学習院の選手も出場。第1回と2回の大会で内藤政邁氏(大5旧高)が走高跳で日本新記録を樹立 して連続優勝。第3回には増田久雄氏(大7旧高)が棒高跳で、第6回と8回には伊達十郎氏(大10旧)が走高跳で優膠するなど輝かしい戦績を残した。
こうして大正5年、学習院徒歩部は「競走部」と名を変えた。その後も学習院の勢いは衰えることなく、大正11年のインターミドルでは、低障害で山田義重 氏(大11旧高)が優勝。宇佐川武雄、島津久大(以下大13中)、南部信雄、中村謙七(以上昭2旧高) の各氏も健闘し、全国制覇を達成した。
第1回目の全国インターハイが開催されたのが大正15年。俊足で知られた南部信雄氏が、棒高跳で記念すべきインターハイ初優勝。会場の神宮外苑競技場に は「大瀛の水」が響き渡り、桜章旗が大空に翻った。
そして昭和6年、競技部の第1次黄金時代が始まった。関東インターミドルで優勝を果たした学習院中等科チームが、全国インターミドルにおいて全国制覇を 成し遂げたのだ。
その中心となった小池正英、山田貞夫、実吉安彦、福岡孝行(以上昭10旧高) の各氏が高等科に進み、第7回から9回の全国インターハイで不滅の三連覇 を成し遂げてしまった。これは、永遠に語り継がれるべき学習院の栄光である。
三連覇の主力選手が卒業したあとも、競技部の活躍は続いた。第2次黄金時代といわれる昭和15年のインターハイの優勝だ。佐久間秀明氏(昭16旧高)を キャプテンに、森田和彦、菅原皓、山本忠良(以上昭16旧高)、山尾信一、稲田植輝、田敏夫(以上昭17旧高)の各氏が出場。総得点61点を獲得し、堂々 の優勝。史上最多4回の全国制覇の記録を樹立した。
戦後、大学と新制高等科が誕生してからも、学習院陸上競技部の活躍は続いている。創部101年目の昨年には中等科陸上部が全国大会に出場し、決勝で立派 な走りを見せた。「お坊ちゃん学校」というイメージに隠れた真の強さ。それは今もなお学習院のどこかに息づいているような気がする。学習院陸上競技部に黄 金時代が再び到来するのも、そう遠い未来ではないかもしれない。

桜帆会の歩み

ヨット部50周年!

学習院大学ヨット部は1954年に創立され、国内屈指の伝統校としてヨット界に広く認知されております。世界選手権、全日 本選手権、国体、全日本学生選手権等、多くのレースに出場し、時として華々しく、ある時は持てる力を充分に発揮できず、悔しい思いを後輩に託したりと色々 でありますが、学生時代の4年間を海や風に親しみ、自然の大きさ、美しさ、怖さを身をもって体感でき、真の友人を得る喜びは多くのOB、OGが人生の糧と しております。
現在の合宿所は、横浜八景島シーパラダイス内マリーナと三浦郡葉山町にあり、平成元年以降途絶えている「全日本学生選手権団体出場」という目標を掲げ、 家族的で楽しく和気藹々の雰囲気の中にも、日々懸命に練習に励んでおります。

ホッケー部の歩み

平成十一年秋の関東女子大学リーグ戦十月十七日対成城大学戦において、学習院大学女子ホッケーチームは4対0で圧勝し、一 部リーグ第三位を確保しました。しかも二位東京農業大学とは勝ちを惜しいところで逃して引き分けているので、実力的には二位に等しいと言えます。チームを 結成以来、たった四年目の快挙でした。関東大学リーグは四部まであるので、価値ある一部三位です。ホッケー界でも噂があちこちに広まりました。学習院強 し、と。
平成十一年十一月十三日ホッケー部は創立七十年を迎えて、記念式典を目白で行いました。島津院長、賀陽桜友会会長始め学習院、ホッケー関係者多数参会の もと行われましたが、女子ホッケーのこの強さは、永いOB活動の積み重ねが大きな要素になっていると思います。よく言われることは、ホッケー部はOBの活 動が盛んだから、「良い」と。
学習院と学生との絆、愛校心は学生生活を終了して社会人となっても何処までも、延々と続きます。ホッケー部卒業生は社会に出てからも、学習院を思い、目 白を思い、現役学生のリーグ戦の戦績を心配し日々を送っています。ホッケー部卒業生の団結は学生の部活動を強力に支えているのです。

昭和四年ホッケー部結成

学習院ホッケー部ほ今を遡ること七十二年前にこの目自の地に産声をあげました。活動を始めたのは昭和四年であり、正式に輔 仁会に認められたのは昭和六年になります。学習院高等科の軍事教練教官に戸山学校から榊原大尉が赴任され、続いて遠山少佐が見え、着任早々「武課」の時間 にホッケーの試合が取り入れられました。これは両先生とも戸山学校の有名なホッケー選手だったことに由来します。両先生はゴール、スティック、ボールを揃 えて武課の授業のみならず休み時間放課後にスティックを弄れるようにしてあったので、好きな連中がスティックを振り回し始めました。秋になると、チームが 編成出来るようになり、東京帝国大学ホッケー部長の井口常雄教授にコーチを願い、試合が出来そうな状態になってきました。

第一回インターハイ出場

昭和四年十二月、帝国大学ホッケー部の企画により、全国旧制高等学校にホッケー普及の目的で、第一回全国高等学校ホッケー 選手権大会が東京帝国大学御殿山グランドにおいて開催されました。参加校は六校で帝国大学連盟傘下の高等学校、すなわち学習院高等科、台北高等学校、第三 高等学校、成城高等学校、浦和高等学校、北大予科。
学習院最初の公式戦出場メンバーは次の通りです。
主将 北大路信忠  (五年卒)
富永 鉄夫
鈴木 甫   (五年卒)
蒲生 郷信  (五年卒)
山口 定男  (五年卒)
大村 清   (五年卒)
坪井 忠郎  (七年卒)
赤松 照彦  (五年卒)
高木 正順  (八年卒)
松平 精   (五年卒)
渋谷 在正  (九年卒)
野球部、ボート部、剣道部の応援メンバー混合チームでしたので、試合も第三高等学校に0対5で敗れました。その後プロパー部員が入部して、正式な学習院 ホッケー部が成立し、昭和六年に輔仁曾への入会が認められました。

第一期隆盛期到来

スティックを弄ぶ連中が集まって来ただけあって、成果はどんどん挙がって来ました。昭和六年第三回全日本高等学校ホッケー 選手権大会(以下インターハイ)優勝、昭和七年八年九年関東高等学校リーグ三年連続優勝、昭和八年九年インターハイに連続優勝と、創部五年にして数々の優 勝杯を獲得しました。当然名選手が続出し、この時の学習院ホッケーの技術が後々まで引き継がれ、今日の繁栄があると考えられます。その時代の主要メンバー は次の通りです。
周布公兼、副島種典、中村路一、佐藤譲、山田義元、渋谷在正、渋沢言忠、小笠原清信、有地次郎、六所五郎、北大路信勇、北大路信義、有地熊蔵、今城政 典。今なお有地次郎は健在で、学生のリーグ戦を応援のためグランドに顔を出します。
その後昭和十二年、十三年、十四年と関東リーグ二部(この当時は大学高校混合)で連続優勝し十五年には台湾へ初めて遠征試合を行いました。創部以来十数 年で学習院の中で、ホッケ一部強し、と言う評価を揺るぎないものとしたのです。

第二期隆盛期(昭和二十三年から)

ホッケー部に黄金期が訪れました。第二次世界大戦も終わり、まだ東京が焼け野原になっていた頃、昭和二十一年には犬養康 彦、松平忠久が入部し二十二年には窪田裕一、黒川眞幸、佐野和夫、松平尚次郎、大島護久、緒方幸三、上田宗良等が入部して、OB伊東渉、浅田俊二、町尻量 光の援助、指導の下、その素質を生かして着々と力を付けて行きました。
そして昭和二十三年には国民体育大会関東予選決勝で慶応高校に1対0で勝ち、出場権を得て、福岡での本大会では決勝まで進み、惜しくも札幌商業高校に0 対3で敗れ二位となったのです。ここで学習院の名は全国に轟くこととなりました。その後学習院高等科は国体に昭和二十七年まで関東代表としての出場が続き ました。
学習院が新たに学習院大学となった昭和二十五年、関東大学ホッケーリーグ二部として初参加しましたが、早速五戦全勝優勝し、一部に昇格しました。
試合結果 対東京歯科大学 不戦勝
対一橋大学   8対0
対東京大学   10対0
対成城大学   12対2
対武蔵大学   10対1
中心的選手であった黒川、上田、松平忠久、窪田、緒方、佐野の卓越した技術を基に見事なパスワークと安定したバックスは絶賛を浴びたものでした。この年 の第一回四大学定期戦は楽勝でした。
対武蔵大学   10対0
対成城大学   11対0

ついに関東大学リーグ一部二位に

そしてこの強さは二十六年には更に上昇して、関東リーグ一部の二位にのし上がりました。
対慶応大学   2対0勝ち
対明治大学   0対3負け
対法政大学   6対1勝ち
対立教大学   5対2勝ち
対早稲田大学  3対2勝ち
この時の最強メンバーは次の通り
FW 本田春義  二年
FW 松平尚次郎 二年
FW 松平忠久  四年
FW 窪田裕一  三年
FW 金 時習  一年
HB 円谷一   二年
HB 黒川眞幸  二年
HB 緒方幸三  二年
FB 佐野和夫  三年
FB 上田宗良  三年
GK 小坂昇一郎 三年
この年日本代表チームがインドに一ケ月半遠征しましたが、この代表選手の中に黒川眞幸が選ばれました。
その後もホッケー部は関東学生リーグで一部で揺るぎない地位を保って、昭和三十年の全日本ホッケー選手権大会には準決勝に進みベスト4になったのです。

三十年代は潜伏期

三十三年から二部へ転落してからの十年間は一部との往復となりました。甲南大学との定期戟が始まりましたが、第一回は5対 0と圧勝したものの、四十三年にはどん底の三部に転落してしまいました。

潜伏期脱却して海外遠征始まる

この後飛田孝監督(三十八年卒)を迎えて一挙に三部からあっという間に一部に昇格しました。明治大学に教えを乞い、強化合 宿、韓国遠征等々新機軸を打ち出して良くチームをまとめたのです。この時から現在まで続いている海外遠征は四年毎に実行されていますが、これは在学中に必 ず海外遠征がある、と言う事により、優秀な部員獲得の機会が増えるなど、現在のホッケー部充実の基礎が固まったと言えましょう。
四十八年韓国遠征のメンバー。
団 長 飯坂良明教授(ホッケー部長)
監 督 飛田 孝
コーチ 深谷弘士 関谷 隆 桜井直己
主 将 池田幸雄
選 手 奥田道彦 野口 亨 山田 実
釈 洋一 横溝昌宏 野崎博典
長井広司 福本雅夫 亀田尚裕
小林 進 竹口友章 石井庸一 薦野 潔

高円宮殿下インターハイにご出場

高等科ホッケー部に高円宮殿下がご入部になりました。運動神経も良くメキメキと上手におなりになり、四十六年の徳島でのイ ンターハイに学習院は出場権を得て、殿下もライトハーフとして活躍されました。二回戦で御坊商業高校に4対2で逆転勝利しました。しかし三回戦では日本一 と言われる星光学院高校と対戦することとなり、0対7と大差で敗退しましたが、その後インターハイの出場枠が少なくなり、あまり出場出来ないでいます。殿 下のご出場は貴重な実績です。 また大学チームも今日の平成に至るまで一部と二部を往復してはいますが、レベルから見ると、この二十年間上位を保っている と言えます。

女子チーム誕生と大活躍

冒頭にも書いたように、現在女子ホッケーの活躍が見事です。平成六年の春、帰国子女の新一年生谷村康子以下が女子チームを 作りたいと言う強い意志のもとチーム結成に務めました。そして紆余曲折はありましたが、正式に学習院輔仁曾ホッケー部女子チームが誕生しました。二年目か らメンバーが揃い、早速関東大学ホッケーリーグ戦に参加しましたが、女子大学はホッケーブームで関東だけでも二十校を越えており、四部からのスタートとな りました。監督に就任した高田良太(六十二年卒)の巧みな指導のもと、気力充実、練習熱心、研究心旺盛のため、三部昇格、二部昇格を一気に果たし、あっと いう間に一部昇格を果たしました。平成十一年には二位と引き分けながら三位となり、ホッケー界で一躍有名になりました。平成十一年開催の東西対抗戦には代 表選手に大原知子、須磨映理子、翌年には荒木郁子の三名が選ばれる等、ホッケー部第三期の隆盛期が続いています。これらの原動力となったメンバーは次の通 り。
谷村康子、日月(たちもり)玲子、山本彩恵子、神武友子、河野真弓等々です。女子部員も四十名に増え、現役部員は男女大学高等科を含めて八十名。創部以来 の大人数で、その昔部員難で苦労した事が嘘のようです。しかしこれにはOBである桜杖会の活動が基盤となつているのです。

(社)日本ホッケー協会会長に 学習院卒業の上田宗良

OBになってからもホッケー界と関わりを持って活躍している者が数多くいます。その最も頂点は上田宗良(二十八年卒)で す。第二隆盛期でフルバックで活躍し、卒業後は日本開発銀行の業務の傍ら、国際ホッケー連盟の仕事にも専心し、オリンピックには絶えずホッケー役員として 運営に関わり、現在は(社)日本ホッケー協会会長、国際ホッケー連盟常務理事、アジアホッケー連盟副会長、(財)日本オリンピック委員会副会長を経て特別 顧問、また青森で開催される二〇〇三年冬季アジア競技大会組織委員会の副会長に青森県副知事と共に就任し、ホッケーを通じて世界のスポーツ振興に貢献して います。
その他には内藤政武(三十五年卒)が日本ホッケー協会理事、釈洋一(五十一年卒)が関東ホッケー連盟理事、飛田孝(三十八年卒)が大阪ホッケー協会副会 長、深谷弘士(四十一年卒)が東京ホッケー協会理事、濱口孝文(五十八年卒)が日本学生ホッケー連盟理事として現在活躍しています。過去にも中村光良(三 十四年卒)が日本社会人ホッケー連盟専務理事として実業団関係のホッケー隆盛に貢献するなど、ホッケースポーツ振興のために役立っているOBが数多く存在 するのも、他の運動部と違うところであり、特徴であると思います。

目白ホッケー祭り

年に二回目白のグランドで行われるホッケー祭りは、男女の現役OBが一三〇名近く集まって六人制ホッケーを楽しみます。二 〇チーム以上が競う会場は大変盛り上がりを見せ、ひと昔前では考えられない盛況ぶりです。
これも第一隆盛期から育まれた学習院ホッケー魂が連綿と引き継がれて今日に至って開花したと言えましょう。これからも更なる前進を目指す学習院輔仁曾 ホッケー部でありたいと考えています。

★以上 出典は、学習院広報 第64号 (平成13(2001)年7月15日発行)より
「ホッケー部の歩み」・・・執筆 内藤政武 氏 (PDFファイル79KB)